ヒトラー打倒計画に関与
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:20 UTC 版)
「エルヴィン・ロンメル」の記事における「ヒトラー打倒計画に関与」の解説
ロンメルのヒトラーに対する信頼はかなり早い時点で失われており、北フランスに着任し、精力的に「大西洋の壁」の整備を監督していた1944年の2月に、ロンメルはシュトゥットガルト市の市長であったカール・シュトローリン(英語版) と面談した。シュトローリンは熱心なナチ党員であったが、戦局が悪化するとカール・ゲルデラーと共に、ユダヤ人の虐殺やナチス党の法支配の中止を訴える上申書を提出しており、反体制派として有名となっていた。シュトローリンはロンメルに対して戦況が絶望的であることを指摘すると、現状を打開する唯一の策として「ヒトラー総統を捕えてマイクの前に立たせ、辞職を発表させることです」「既に一部の高級将校の同意も得ており、閣下の決起を期待します」と訴えた。シュトローリンらがロンメルを仲間に引き入れようとしたのは、ドイツ国民の間で抜群の知名度と信頼を得ている存在だったからであるが、ロンメルはしばし黙考したのち「戦争は負けた。彼(ヒトラー)は幻想の中に生きている。彼は、自分が国家だといったルイ14世の再来だ、自身と国民との区別を知らぬ」とのヒトラー評を述べると「承知した。我々軍人の使命は国民を守ることにある」とシュトローリンの手を握った。 こうした反ヒトラー派はドイツ軍内にいくつも存在しており、ロンメルらはヒトラーの殺害までは考えておらず、ヒトラーに西側連合国との講和を迫り、ヒトラーが拒否すれば逮捕して裁判にかけるといったいわば穏健派であった。それに対してヘニング・フォン・トレスコウ少将やクラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐などヒトラーの暗殺も辞さない強硬派もおり、ハンス・シュパイデル中将もその一員であった。シュパイデルは第一次世界大戦のときからロンメルとは旧知の中であり、1944年4月にB軍集団参謀長に転属になると真っ先にロンメルと会談した。ロンメルは旧知のシュパイデルに対しては胸襟を開いて、北アフリカでの体験談でヒトラーを批判し、「この戦争は可及的速やかに終わらせるべきである」と自説を述べた。シュパイデルは、ロンメルのヒトラー批判を聞くと自らも秘密を打ち明けて、自分が反ヒトラー活動の指導者ルートヴィヒ・ベック上級大将と連絡を取り合っていること、ベックが現政権に引導を渡す準備をしていることを伝えた。その後もロンメルとシュパイデルは何度も密談を行ったが、ロンメルはヒトラー打倒には賛成ながらも殺害については同意しなかった。 ロンメルがヒトラーの殺害に同意しなかった理由としては、ヒトラーに失望はしていても、軍人としての忠節義務には逆らえず、上官の殺害までには踏み切れなかったというものと、ロンメルが、第一次世界大戦でのドイツ帝国の敗戦は、ドイツ軍が負けたわけではなく、ドイツ本国内における戦争妨害・裏切りによるものというデマゴギーである、いわゆる「背後の一突き(匕首伝説)」を信じており、ヒトラーの殺害は「匕首伝説」の再来となるから逮捕にとどめておくべきと考えていたなど諸説ある。 5月15日にロンメルは旧友でフランス軍政長官カール=ハインリヒ・フォン・シュテュルプナーゲル大将との秘密会合に出席した。その席では戦争の早期終結とヒトラー政権打倒を一気に進める方策について話し合われたが、抵抗運動のリーダーとしてドイツ国民、ドイツ軍のみならず、敵の連合軍側にも議論の余地がないほどの尊敬をかちとっているのはロンメルただ一人であるということが確認された。この頃にはラ・ロシュ=ギヨンのB軍集団司令部は反ヒトラー活動の拠点みたいになっており、多くの反ヒトラー派の人物が訪れた。ロンメルたちはヒトラー打倒後についても具体的な計画を話し合い、西側連合国と講和を急ぎ、講和成立後に西側の兵力を全て東部戦線に回して、戦線を縮小したうえでその維持に努めることや、新政権を樹立しその首班をゲルデラーとして、ロンメルが全軍をまとめるといった骨子ができあがったが、しかしこれはドイツ側に一方的に都合のいい現実離れした案であって、連合国側が受け入れる見込みがまったくないものであった。 6月29日にベルクホーフでの会談でヒトラーと物別れに終わったロンメルはもはや行動を起こすしかないと覚悟を決めて、ヨーゼフ・ディートリヒ親衛隊上級大将や後任の西部方面軍司令官ギュンター・フォン・クルーゲ元帥にも協力を要請した。そしてロンメルは、7月13日にヒトラーに最後通牒を送りつけた。西部戦線の評価報告書という形式であったが、最後は「あなたに求めざるを得ません。マイン・フューラー。この状況から、遅滞なく、しかるべき結論を導かれんことを」で締められた。ロンメルはこれを至急電で打電させた後、シュパイデルに「私はヒトラーに最後のチャンスを与えた。もし彼がしかるべき結論を導きだせないのであれば、我々は行動を起こすしかない」と決意を述べている。ロンメルは、自分の説得に応じないヒトラーの頑迷さに、次第に態度が強硬になっており、7月17日、ロンメルが西方装甲集団司令官ハインリッヒ・エーバーバッハ大将と作戦協議をした際に、「総統は殺されなければならない。他に手段がない。あの男こそが全てを推進している源なのだ」とヒトラー殺害もやむなしと述べている。しかし、その日にロンメルはヤーボによって重傷を負ってしまい行動を起こすことはできなかった。
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