ヒトラー政権と枢軸の形成
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「近代から現代にかけての世界の一体化」の記事における「ヒトラー政権と枢軸の形成」の解説
詳細は「国家社会主義ドイツ労働者党」、「アドルフ・ヒトラー」、「スペイン内戦」、「ファランヘ党」、および「日独伊防共協定」を参照 世界恐慌はドイツ経済の破綻をまねき、そのなかでナチスと共産党が躍進した。 国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)は、大戦後アドルフ・ヒトラーを指導者として勢力を拡大してきた政党で、ユダヤ人排撃、ヴェルサイユ条約破棄、ドイツ民族の結束などを主張した。その過激な行動は当初は国民に支持されなかったが、政治の混乱や生活不安におびえる中間層、また、ドイツ共産党(KPD)の進出をおそれる資本家や軍部に支持されて、勢力を急速にひろげた。ナチスは1932年の選挙で第1党となり、翌33年ヒトラーは首相に任命された。ヒトラーは、国会議事堂放火事件を利用して共産党を弾圧し、全権委任法を成立させてナチス以外の政党をつぎつぎに解散させて一党独裁体制を実現し、賠償金支払いを一方的に打ち切って、1934年にパウル・フォン・ヒンデンブルクが死去すると、「ドイツ国および国民の国家元首に関する法律」を定め、大統領の地位と権限も受けついで総統と称した。 独裁体制をかためたヒトラーは大規模な土木工事や軍需生産をおこして失業者を減らし、他方で文化や教育をきびしく統制して反対派やユダヤ人への迫害をはじめた。多くの社会主義者、民主主義者、ユダヤ人らが国外に亡命した。 1933年、ドイツは国際連盟を脱退し、35年にはザール地方を編入、徴兵制を復活して再軍備宣言を発し、36年にはロカルノ条約を破棄してラインラント進駐をすすめるなど、ヴェルサイユ体制をつぎつぎと破壊していった。 世界恐慌によって経済的にゆきづまったイタリアも、苦境から脱するため、1935年にエチオピアに侵攻し、毒ガスをも使用して、翌年、エチオピア全土を支配した。国際連盟は、イタリアを侵略国として経済制裁を決議したが、十分実行されず、日独の脱退に加えてその威信は大きく傷ついた。1935年にストレーザ戦線を結んで英仏とともにドイツに対抗しようとしたイタリアだったが、同年の英独海軍協定によって戦線は崩壊、1936年に入るとドイツに接近して「ベルリン・ローマ枢軸」とよばれる同盟関係が成立、1937年にはイタリアもまた国際連盟を脱退した。 第一次世界大戦後のスペインでは、イデオロギー対立が尖鋭化していた上に地方自立の動きも加わり、政治的混乱が続いて1923年から1930年にかけてミゲル・プリモ・デ・リベラ将軍による軍事独裁政権が成立した。1931年に左派が選挙で勝利し、王制から共和制へと移行したが、1933年の総選挙では右派が勝利して政権を奪回、しかし、左右両勢力とも内部の統一が図れず、膠着状態が続いた。1936年の総選挙では再び左派が勝利し、マヌエル・アサーニャ率いる人民戦線政府が成立した。 人民戦線勢力はさらに進んで、警察を用いて保守派の大物カルボ・ソテロを暗殺するなど、暴力による右派の物理的排除に乗り出した。これに対して、フランシスコ・フランコがスペイン本土と植民地モロッコで軍隊が反乱を起こすと、赤色テロの脅威に直面したカトリック教会、旧王党派、地主、資本家、軍部などがこれを支持してスペイン内戦へと突入した。内戦に対し、イギリス、フランスは不干渉の立場を表明したが、地中海地域への勢力拡大をねらうイタリアは、ドイツとともに反乱軍(フランコ側)を公然と支援した。政府側にはソ連の援助や欧米の社会主義者の支援があり、アメリカのアーネスト・ヘミングウェイ、フランスのアンドレ・マルロー、イギリスのジョージ・オーウェル、日本のジャック白井らが国際旅団として共和国側に加わった。内戦は、フランコ側が1939年マドリードを陥落させて勝利、同年のファランヘ党の党大会でスペインで唯一の政党となることが決議された。 人民戦線など国際共産主義運動の動きに対抗して、1936年日本とドイツは日独防共協定を結び、37年にはイタリアも参加して日独伊三国防共協定に拡大した。こうして、「反ソ」・「反共」を訴えながら、ヴェルサイユ・ワシントン体制に挑戦する「持たざる国」日本・ドイツ・イタリアは、三国枢軸を結成するにいたった。
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