1933年政権掌握以降のナチスのプロパガンダ
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「ナチスのプロパガンダ」の記事における「1933年政権掌握以降のナチスのプロパガンダ」の解説
1933年1月30日、ヒトラーがドイツ国首相に任命され、ヒトラー内閣が成立した。与党となったナチ党は3月5日の国会選挙に向けて政府機関をも駆使したプロパガンダを強化することが可能となり、その結果としてナチ党は国会議員の647議席中288議席を獲得する大勝利をおさめた。3月14日、大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクはヒトラーの要請にもとづいて「帝国国民啓蒙宣伝省」の新設を承認し、ナチ党宣伝全国指導者であるゲッベルスを国民啓蒙・宣伝大臣に任じた。その前日にヒトラーは、ナチ党の政権掌握に続き、ミュンヘンで「州の政治意思の均一化」を命令した。ゲッベルスが党と政府の宣伝政策の責任者を兼任したことにより、国家全体にわたる宣伝活動が組織的に実施されることになった。意見形成の最重要機関は今やナチ党の装置に組み込まれ、ベルリンから一元的に指令されることになった。ナチ党はこうして国家的なプロパガンダを手中に収めたのである。 可能な限り多くの市民が聴取できるように、ナチ党が特別に開発を推進し、大々的に生産されたのが「国民受信機」であり、国民からはすぐに「ゲッベルスの大口 (Goebbelsschnauze)」とあだ名された。価格は76ライヒスマルク(従来のラジオは200から400ライヒスマルク)と安価に抑えられ、国民のほとんどが手にすることができた。そのためラジオは、すぐにナチのプロパガンダで影響力の大きなメディアへと成長した。しかし休む間もなく声を張り上げる政治宣伝番組が続くと、これに嫌気が差す国民が急速に増えていった。そこでゲッベルスは必要に迫られ、より一層人々の気をそそり、気晴らしになるような番組制作へと舵を切った。例えばリクエスト番組の希望音楽会(ドイツ語版)、ラジオドラマ、戦果に胸が高鳴る国防軍戦況発表(ドイツ語版)などである。 また国民の意見傾向の確認とこれに対応した宣伝が重要であった。日々刻々と移り変わる世論に、できる限り迅速に対応する必要があった。1938年の11月ポグロム(いわゆる「帝国水晶の夜」)、すなわちナチ政権が、組織的にドイツ全土でほぼすべてのシナゴーグ、無数のユダヤ人商店や施設、ドイツ系ユダヤ人の住居を破壊した事件であるが、この事件後、人々の間でも、また党内でも、経済を損なうこの類の度を越した暴力行為からある種、距離を置く態度が認められた。その結果、人種主義的プロパガンダは一時的に減少した。この時からユダヤ人社会に対する嫌がらせは、むしろ鳴りを潜めた。その理由は、「迫害があまり目立たず、かつ適法の範囲内で行われる」方が、住民がナチスのユダヤ人や政敵に対するポグロム政策を受け入れやすいことが確認されたためである。 第二次世界大戦末期、軍事情勢が絶望的になるのに合わせ、ラジオや特に『ドイツ週間ニュース』で一層強調されていったのが、遠のくばかりの「最終勝利(ドイツ語版)」のため、国民に犠牲をささげる覚悟を決めさせることであった。戦争の1年目は「勝利は確実」と声高に語られたものの、この時になると、ただひたすら「最後まで戦う」を繰り返すばかりであった。
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