1933年春の総選挙と国会議事堂放火事件
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「ヨーゼフ・ゲッベルス」の記事における「1933年春の総選挙と国会議事堂放火事件」の解説
ナチ党は第一党とはいえ、連立与党の国家人民党と足しても国会で過半数を得られているわけではなかった。したがってこれ以前の三代の大統領内閣と同様に国会から内閣不信任案を突き付けられる危険性があった。その対策は今まで通り国会無視の大統領緊急令による政治を行うか、総選挙で過半数を狙うか、中央党を連立与党に引き込むか、共産党議員の資格を停止するか(共産党議席を停止すればナチ党と国家人民党で過半数になる)のいずれかであった。 ヒンデンブルクの希望により内閣は申し訳程度に中央党との交渉が行ったが、2月1日に交渉は決裂。国家人民党は共産党議席剥奪を希望したが、ヒトラーは総選挙を行うこととした。政権を掌握した今、ナチ党が選挙を恐れる必要はなく、また保守派閣僚によるナチ党閣僚囲い込みを突破するためにも総選挙での大勝が必要だった。 ゲッベルスも今回の選挙は野党だった頃とは条件がまるで違うことを認識し、2月3日の日記で次のように書いている。「我々は国家組織を動員できるようになったので運動は容易である。新聞とラジオは意のままである。我々は政治宣伝の傑作を創るつもりだ。金は有り余っている」。 当時のドイツではラジオ局は政府の監督下にあったため、野党の頃のヒトラーの声が電波で流されたことは一度もなかった。しかしそれも今や一変し、ラジオはナチ党の有力な宣伝機関の一つと化した。ただ集会でのヒトラーの演説をラジオでそのまま流すと興奮しすぎで場違い感があった。ヒトラーもそれについて「私はラジオ受けが良くないようだ」と嘆いていた。ゲッベルスはラジオ担当者とともにヒトラーの声を研究して様々な方法で編集して声質に柔らかさと深みを加えたり、場所によっては明瞭・決然と響くよう調整した。 選挙戦の最中の2月27日に国会議事堂放火事件が発生した。現場にいたオランダ共産党員マリヌス・ファン・デア・ルッベが犯人として逮捕された。ヒトラーやゲーリングはこれを共産主義者全体の国際連帯運動によるテロ活動と認定し、翌2月28日にはヒンデンブルク大統領より国民及び国家保護のための大統領緊急令(ドイツ語版)が発令され、多くの左翼がテロ関係者として保護拘禁されていった。 ゲッベルスも『デア・アングリフ』で次のように報道した。「今や我々は共産主義の脅威を根絶やしにしなければならない。世界の害毒ともいうべきロシアとドイツの共産党に雇われた24歳の外国人共産主義者が国会に放火した今、一刻の猶予もない! こうしたテロリストどもを単なる犯罪者として裁くだけでいいのか! この機会に我々は攻撃に出てはならないのか? ドイツをテロの苦悩から解放しようとする政治家は、全能の神によって報いられて当然ではないのか」。 その後行われた3月5日の国会選挙でナチ党は得票1700万票(得票率44パーセント)を得て647議席中288議席を獲得した。連立与党の国家人民党(52議席)と足すと過半数を制した。さらに3月9日には正式にテロ組織と認定された共産党の議席が剥奪されたが、再選挙を行わないで議席ごと抹消されたので総議席数が566に減り、ナチ党が単独過半数を得た。ゲッベルスは選挙結果について次のように日記に書いている。「勝利は我々の物となった。予想以上の圧倒的勝利だ。だが今となっては数字に何の意味があるのか。我々は今やドイツとプロイセンの支配者なのだ。他の全ての党は決定的に全て打ち倒した。」。
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