国民啓蒙・宣伝大臣
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「ヨーゼフ・ゲッベルス」の記事における「国民啓蒙・宣伝大臣」の解説
1933年3月14日、ヴィルヘルム街にあるかつて皇室の邸宅だったオルデンスパレー(ドイツ語版)に「国民啓蒙・宣伝省」が置かれ、ゲッベルスがその大臣に任じられた。ゲッベルスは宣伝省を開くに際してその目的を次のように定義した。「革命には二つの方法がある。機関銃を持つ者には勝てないと敵が認めるまで、敵を掃射し続けるのが一つ。これは安易な方法である。残る一つは精神革命による国家の改造である。この方法なら敵を破壊することなく味方に組み入れることができる。最高の勝利は敵の殲滅ではなく、敵に勝者たる我々の賛歌を歌わせることなのだ」。 ゲッベルスは他の省庁の権能を自らの宣伝省に集めて行った。内務省からは検閲権や公休日の取り締まり権、経済省からは広告監督権や産業博覧会・貿易博覧会開催権、郵政省からは旅行案内業務、外務省からは対外的PR権をそれぞれ獲得した。また全国の劇場も管轄下に置いた(プロイセン州の劇場はゲーリングの支配下に残された)。 宣伝大臣となったゲッベルスの最初の大仕事は3月21日のポツダム・衛戍教会のフリードリヒ大王の棺の前で行われた国会開会式「ポツダムの日」の準備だった。ゲッベルスはこの式典を事細かに定め、それについて日記の中で「こういう大掛かりな国家祝祭に際しては些事の中の些事が重要なのだ」と述べている。帝政復古主義者であるヒンデンブルクやユンカーたちを満足させるべく、プロイセン的・復古主義的にその演出を施した。この行事はヒトラーがヒンデンブルクやユンカーや軍部の心を捕らえるのに役立った。この日、ヒトラーと並んで立ったヒンデンブルクについてゲッベルスは「この尊敬すべき長老を、今もなお、我らの上に戴いていることは、なんと幸せなことだろう」と書いている。 米英マスコミによる反ナチ報道が高まってくると、ゲッベルスはこれをユダヤ国際資本の陰謀と見て、ユダヤ企業に対するボイコット運動を行うことをヒトラーに進言した。米英マスコミを牛耳るユダヤ資本家たちが反ナチ報道がドイツ在住の同胞の安全を危うくすることを知れば、報道の調子を変えるはずという考えからだった。ヒトラーは進言を受け入れ、4月1日にシュトライヒャーの指揮のもとにユダヤ企業に対するボイコット運動を行わせた。 5月10日にはベルリンはじめ全国の大学の大学生のナチ党員を動員して公私立の図書館からユダヤ人の書いた書物などを次々と押収して広場に集めさせて焼き払った(焚書)。ハインリヒ・マンなどの反ナチ派の本、またカール・マルクスやジークムント・フロイト、ハインリヒ・ハイネなどユダヤ人達の本が焼かれた。この焚書の集会でゲッベルスは次のように演説した。「過激なユダヤの主知主義は終焉した。過去の悪しき亡霊は正当にも火刑に処された。これこそ偉大にして象徴的な行為である。今日ほど青年が発言権を持った時代はかつてなかった。今や学問は栄え、精神は目覚めつつある。この灰の中から新しい精神が不死鳥のように舞い上がるであろう」。しかしハインリヒ・ハイネは「本を焼く所では、終いには人間をも焼く」と予言していた。 8月20日、ベルリン第10回放送展で「国民ラジオ」がはじめて公開され、ゲッベルスは「19世紀は新聞であったが、20世紀はラジオである」と公言した。ゲッベルスはラジオによる民衆扇動の重要性を的確に認識していた。各ラジオメーカーにラジオのフル生産を指示し、外国放送は聞けない「国民ラジオ」を全国28の工場で大量生産させ、安価な76マルクで購入できるようにした。また大衆がラジオを聞く習慣をつけることを偶然に任せず、全国各地に放送監督所のシステムを作って絶えず大衆と接触させ、パンフレットを出すことで重要な放送を知らせ、人々が公の場所に備え付けられた拡張器でラジオを聴くよう仕向けた。そうした努力の結果、1933年から1934年にかけてドイツのラジオ所有家庭数は100万を超え、1938年までには950万に達した。さらにその後には労働者層への普及のためにより小型で安い物が売りだされ、ドイツのほぼ全家庭にラジオが普及するに至った。 9月25日にはライヒ文化院法が公布され、宣伝相たるゲッベルスの下に全国著述院(ドイツ語版)、全国新聞院(ドイツ語版)、全国ラジオ院(ドイツ語版)、全国音楽院、全国演劇院(ドイツ語版)、全国映画院(ドイツ語版)、全国造形芸術院の7つの全国文化院が創設され、ドイツのあらゆる精神的創造者は該当する全国文化院に加入することを義務付けられ、ゲッベルス宣伝相による監視と検閲を受けた。ユダヤ人は適格性を欠くとされて文化面からどんどん排除されていった。 外務省から対外PR権を獲得していたため、9月下旬には外相ノイラート男爵とともにジュネーヴの国際連盟の世界軍縮会議(英語版)に参加したが、国際連盟脱退を決意したヒトラーによりすぐに呼び戻された。 エルンスト・レームとゲッベルスは比較的親密な間柄であった。レームの死の2週間前までゲッベルスとレームは活発に接触していた。またオットー・シュトラッサーの証言によればゲッベルスはレームの「謀議」に加わっていたというが、その話に確証はないとされる。いずれにしても粛清の日が近づいてくるとゲッベルスはレームや突撃隊の近くにいることに危険を感じて距離をとるようになり、ヒトラーの側近くに身を置くようなった。1934年6月30日からはじまったレーム以下突撃隊幹部の粛清「長いナイフの夜」の際にもゲッベルスはヒトラーに寄り添って同行した。ヒトラーとともにミュンヘンへ飛び、ヒトラーが粛清を行っている時にも何も異議を唱えることはなかった。7月10日のラジオ演説でゲッベルスは6月30日の粛清を「病的な野心家の一味の反乱を電撃的に鎮圧した」として正当化し、外国の「センセーショナルな虚偽報道」を「ドイツ国民は吐気と嫌悪の情をもって背を向ける」と批判している。 同年8月2日にヒンデンブルクが死去するとヒンデンブルクを「史上最大のドイツ人の一人」と賞賛する記事で新聞を埋め尽くし、大々的な葬儀を行った。またゲッベルスはラジオで大統領職と首相職が統合されてヒトラーは「総統兼ドイツ国首相」となることを発表した。8月19日にはそれについての国民投票を行い、賛成票は88.9%にも達した。 ゲッベルスはニュルンベルク党大会にはあまり関心がなかったようでそれに関する彼の日記の記述は少ない。レニ・リーフェンシュタールが監督した記録映画『意志の勝利』で知られる1934年9月の党大会もゲッベルスではなく、シュペーアが主に準備をした。この党大会でゲッベルスは「願わくば我々の情熱の炎が永遠に燃え続けるように。この炎のみが現代の政治的プロパガンダの創造性に富む芸術に光と温もりを与えるのだ。この芸術は国民の心の底より発し、その活力源である国民のもとに常に還元されなければならない。武力による権力も結構だが、国民の心をつかみ、引き付ける方が一層望ましくもあり効果的である」と演説している。また翌1935年5月1日にはレニの『意志の勝利』に最高評点の「国民の映画賞」を授与した。 1936年6月にニューヨークのヤンキー・スタジアムでドイツ人ボクサーマックス・シュメリングとアメリカ黒人ボクサージョー・ルイスの試合が行われたが、「ジョー・ルイスが老いぼれボクサーを苦も無く片付けるだろう」という大方の予想に反してシュメリングが勝利した。これは「ドイツ人の非アーリア人種に対する勝利」としてナチスの国家的慶事となった。ゲッベルスはもちろんのことヒトラーもシュメリングに祝電を送っている。またゲッベルスはシュメリングの帰国に際して古代ローマの凱旋将軍のように出迎えるよう手配した。 1936年8月のベルリンオリンピックは、ゲッベルスが演出の総指揮を取り、一大宣伝ショーとして大きな成功を収めた。特に世界の注目を集めたのはカール・ディーム(ドイツ語版)博士発案のギリシアからバルカン諸国、オーストリアを経てドイツに聖火を運ぶ走者リレー(聖火リレー)を初めて演出したことである。 またこのオリンピック期間中、多くの観光客が国外からやってくることに鑑み、ホテルやカフェ、海水浴場など観光客が立ち寄りそうな場所から「ユダヤ人立ち入り禁止」の掲示を取り払うことを徹底した。国内外で悪名高いシュトライヒャーの反ユダヤ主義新聞『デア・シュテュルマー』も売店での販売を禁止した。こうした処置のおかげでこの時期にドイツを訪問した観光客の多くはドイツに好印象を持つ者が多かったという。ゲッベルスの8月2日の日記にはオリンピックを「ヘンデルのハレルヤ(メサイア (ヘンデル))。偉大な、感動的な祭典」と記し、続けて「首相官邸で長い間総統と無駄話。彼は日本を賞賛し、ロシアには厳しい。その通りだ。」と書いている。 1937年には、ドイツの映画会社最大手ウーファをナチ党で買収し、事実上ゲッベルスが所管することとなった(さらに1942年には完全国営化)。『ロスチャイルド家』など反ユダヤ主義プロパガンダ映画から『ミュンヒハウゼン』など娯楽映画に至るまで次々と映画を制作させた。 1937年には、昨年に日独防共協定を結び同盟国となった日本の映画製作者の川喜多長政と、ドイツの映画製作者アルノルト・ファンクによる合作で、原節子、早川雪洲、ルート・エヴェラー(ドイツ語版)などが主演する映画『新しき土』(ドイツ語題『Die Tochter des Samurai(侍の娘)』)を制作することを許可し、またその制作を支援した。ゲッベルスの日記もこの映画について触れている。「独日合作映画『サムライの娘』の封切。映画の撮り方は素晴らしい。日本の生活や考え方を理解するのに良いし、筋もまずまずだ。しかし我慢できないほどに長い。それが残念だ。 1937年7月にゲッベルスは、アドルフ・ツィーグラー(ドイツ語版)に指示して、ナチ党政権が「退廃芸術」として批判していたモダンアートや表現主義、抽象絵画の作品を集めさせ、7月19日に見せしめとしての「退廃芸術展覧会」を開かせた。アドルフ・ツィーグラーは「ドイツ国民よ。来たれ。そして自ら判断せよ」と開幕演説している。シャガール、クレー、キルヒナー、ノルデ、ゴッホ、ピカソ、ブラック、セザンヌなどの絵が晒された。展覧会には誇張するために狂人の絵も展示されていた。このうちキルヒナーは自分の作品を退廃芸術に指定され、この展覧会に晒されたことに強いショックを受け、自殺している。 1938年11月7日に駐パリのドイツ大使館でユダヤ人青年ヘルシェル・グリュンシュパンがドイツ大使館員を暗殺した事件を受けて、11月9日夜にドイツ全土で発生した反ユダヤ主義暴動「水晶の夜」はゲッベルスが突撃隊を動員して行ったものだといわれる。しかしドイツ経済への打撃は大きく、事件後、航空省で行われた事件処理の会議で四カ年計画全権責任者としてドイツ経済に最終的責任を負うヘルマン・ゲーリングから批判を受けている。この件でゲッベルスはユダヤ人問題からの撤退を余儀なくされたという。代わりにゲーリングがユダヤ人問題の全権責任者となった。 ナチ党政権誕生から年を経るごとに、ヒトラーの体制は強固になっていったが、それと反比例してゲッベルスの権力や重要性は低下していった。この頃のドイツは大規模な再軍備で失業者もなくなり、景気回復が国民に実感されるようになっていた。国民のほとんどはヒトラー政権に不満を持っていなかった。つまりゲッベルスがわざわざ宣伝・啓蒙しなくても国民はヒトラーを支持していたのである。そのためゲッベルスはナチ党がいまだ野党であるかのような趣の新聞を出したり、集会を開くことがあった。「世界革命を扇動するユダヤ人」だとか「コミンテルンの外人部隊」だとかの攻撃によって党や国が滅亡寸前かのように描く記事がその典型である。敵の存在を作らないと自分の存在価値がなくなる一方だったためである。 1939年3月にはヒトラーの50歳の誕生日に『人間ヒトラー』という本を出版して献上することを計画していたが、ヒトラーから止められた。ヒトラーは国民に自分の私生活に関心を持って欲しくなかったらしく、また自分の伝記の作者としてふさわしいと考えていたのはゲッベルスではなかったといわれる。 1939年8月20日に独ソ不可侵条約が締結されるとゲッベルスの宣伝省はただちに「ボルシェヴィキ攻撃キャンペーンを当分の間中止すべし」との指令をあらゆる報道機関に対して発した。これによりナチ党政権誕生以来一日として止むことはなかった反ソ報道がぱたりと消えた。8月25日にミュンヘン放送で『モスクワを糾弾する。世界独裁のコミンテルン計画』というラジオ番組が放送予定になっていたが、これも放送間際に中止させ、代わりにロシア音楽を30分間流している。ゲッベルスは『デア・アングリフ』においてソ連との連携について「二大民族は共通の外交政策の上に立ってきたのである。これには長い伝統的な友情が作り出した相互理解という基盤があるからなのだ」と論じたが、それ以上の詳しい説明はしなかった。この反ソ報道の消滅という状態は独ソ戦開戦まで続くことになる(ソ連も同様でこれを機に反ナチ報道が一斉に消滅した)。
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