国民同盟結成
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「ジャンフランコ・フィーニ」の記事における「国民同盟結成」の解説
1993年、タンジェントポリで既存の大政党が崩壊して政界再編の流れが起きる。この中で躍進したのが資本主義とキリスト教民主主義を掲げるフォルツァ・イタリアで、シルヴィオ・ベルルスコーニの豊富な資金力を背景に第1党へと躍り出た。元よりロッジP2を通じてネオファシストと関係のあったベルルスコーニはイタリア社会運動と右派連合「自由の家」を結成、政権を獲得した(第一次ベルルスコーニ政権)。なし崩し的に果たした悲願の与党参加ではあったがフィーニ自身は表に立たず、党から何人かの閣僚を送り込んだ。 フィーニは政界再編とフォルツァ・イタリアとの連帯によって得た機会を逃さず、穏健化の仕上げとして党のスローガンから遂にファシズムを外す意向を固めた。そしてその為にはMSIを中心とした新政党を立ち上げる必要があると判断した。1995年1月27日の党大会で党規の大幅な変更が強硬され、党名を新たに「国民同盟」に変更すると共に同時に自由主義とキリスト教民主主義を党の路線とする事を決定、これを受けてイタリア自由党など幾つかの右派政党が合流を承諾した。かくして成立した新党は翌年の総選挙で躍進に成功、結党以来の最大得票15%を記録した。 2001年の総選挙で第2次ベルルスコーニ内閣が成立、以前より更に影響力を増した国民同盟を率いるフィーニは副首相という大役に就き、自らも閣僚経験者となった。2002年2月、欧州政府全権代表を兼任、2006年4月9日に与党連合が左派連合「ルニオーネ」に敗北するまで同職にあった。
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