国民協同党結党
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協同民主党の実権を握った三木は、GHQとの交渉については松本に委ね、主に党務に専念した。三木はこれまで何度か合同話が出ていた国民党、そして無所属倶楽部の合同を進めた。そして三木は三党が合同した暁には、党首に当時自由党で冷遇されていた芦田均を据えることを画策し、1947年(昭和22年)2月には芦田に対して決断を促した。芦田は三木の要請を断り、逆に進歩党と協同民主党、国民党、無所属倶楽部とが合同して新党を結成することを提案した。三木は自由党、進歩党を分裂させた上で、協同民主党、国民党、無所属倶楽部と合同するという小会派を軸とした政界再編を狙っていたため、進歩党に三党が合同しては狙いが全く達成できない形となるため、芦田の提案を拒否した。 結局三木は国民党との合同を先行させることにした。3月8日、協同民主党、国民党、無所属倶楽部の一部が合同して国民協同党が結党される。党首の中央委員長は決まらず、書記長は三木が就任し、副書記長は早川崇、中央常任委員長は岡田勢一、政調会長は船田享二、代議士会長は笹森順造という執行部であった。なお、国民党にいた井出一太郎はこのときの合同で三木と同一会派所属となり、井出は最後まで三木と政治活動を共にすることとなる。国民協同党は暴力革命を否定し民意を反映する国民的な議会政治の確立、新憲法の忠実な履行を掲げ、戦後民主主義体制への同化をアピールし、階級闘争、自由経済論によらない国民共助の協同主義による経済の社会化を主張し、左右いずれにも属さず中道を歩むとした。 三木は1947年4月25日に行われた第23回衆議院議員総選挙において国民協同党の選挙対策委員長となる。この総選挙以降、三木は党の要職や閣僚を歴任するようになったため、選挙中に地元にあまり戻らなくなる。選挙戦の中で、三木は階級闘争でもなく現状維持でもない、相互の人格と立場とを尊重し協同する中道路線を唱えた。しかし国民協同党は選挙わずか一ヶ月あまり前に結成されたことによる準備不足と、右でも左でもない中道路線が「片足を社会党に、もう片方の足を自由党、民主党に突っ込むように」受け取られたこともあり、国民協同党の獲得議席は伸び悩んだ。しかし選挙後、国民協同党は社会党、民主党とともに連立を組むことになり、三木は片山内閣の逓信大臣として初入閣を果たすことになる。
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