モルッカ問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 07:02 UTC 版)
1494年、カスティーリャ王国とポルトガル王国はトルデシリャス条約を締結し、世界を探索と植民地化のために両国の間で二分した。条約は大西洋に子午線を定め、線の西はカスティーリャに、東はポルトガルに帰属するとした。 1511年、当時アジアでの貿易の中心地だったマラッカがポルトガルのアフォンソ・デ・アルブケルケにより征服された。アルブケルケは続いて、当時秘密とされた香料諸島(モルッカ諸島のうちのバンダ諸島はニクズクとクローブといった香辛料の唯一の産地だったため、インド洋での航海の主目的である)の位置を知ろうとして、アントニオ・デ・アブレウにそれを探すよう命じた。1512年の初め、遠征隊は小スンダ列島を通ってバンダ諸島に到着、諸島に上陸したはじめてのヨーロッパ人となった。バンダ島に着く前にはブル島、アンボン島、セラム島も訪れた。その後、船の難破によりフランシスコ・セランはアブレウと別れて北上した。セランの船もテルナテ島で難破したが、彼はそこで当局から交易所の建設許可をもらい、フォルテ・デ・サン・ジョアン・バプティスタ・デ・テルナテ(ポルトガル語版)を建てた。 セランは友人のフェルディナンド・マゼラン(二人が親族だった可能性もある)に手紙を書き、香料諸島について記述した。マゼランはこの記述でスペイン王を説得し、世界初の世界周航への出資を勝ち取った。1521年11月6日、マゼランの艦隊(マゼランは4月のマクタン島の戦いで死去したため艦隊はフアン・セバスティアン・エルカーノが率いていた)は東からモルッカ諸島に到着した。セランも同じころにテルナテ島で死去しており、マゼランとは会えなかった。 マゼランとエルカーノの1519年から1522年にかけての世界周航の後、カール5世はトルデシリャス条約により香料諸島はカスティーリャに帰属するとして、ガルシア・ホフレ・デ・ロアイサ率いるロアイサ遠征隊(英語版)を派遣、諸島の植民地化を命じた。マゼランの航海に参加したエルカーノはロアイサの遠征にも参加、遠征中に命を落とした。また若いアンドレス・デ・ウルダネータもロアイサの遠征に参加している。1525年から1526年までの困難に満ちた航海の後、遠征隊はティドレ島に着き、そこで港を建設した。これにより、すでにテルナテ島にて交易地を持ったポルトガルとの紛争が生じた。1年間の戦闘の後、スペインは敗北したが、諸島の帰属をめぐる小競り合いはその後10年近く続いた。
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