モルティエの攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/06 01:30 UTC 版)
「アルブエラの戦い」の記事における「モルティエの攻撃」の解説
バダホスの守備隊を指揮していたモルティエ元帥は連合軍の遅れを利用した。要塞の守備に6個大隊を残し、3月初めに兵約7,000と、バダホスに駐留していた攻囲部隊から借りた3個砲兵隊を率いて、近くにあるポルトガルの町カンポ・マイオル(英語版)へ進軍した。フランス軍は3月14日(到着当日の夜)にサン・ジョアン要塞(Fort São João)を占領したが、カンポ・マイオルの要塞の攻略はより困難であった。ホセ・タラージャ(José Talaya)少佐が指揮する民兵800と「オルデナンサス(Ordenanças)(英語版)」しかいなかったにもかかわらず、町は7日間持ちこたえ、モルティエの砲撃により堡塁の全ての面が崩されるまで降伏しなかった。また、モルティエはアルブルケルケを攻囲するため、マリー・ヴィクトル・ ラトゥール=モブール(英語版)将軍と2個騎兵連隊を送った。そしてアルケブルケの守備隊6,000はフランス軍に増援が必要になる前に降伏した。 カンポ・マイオルにおけるタラージャ少佐の粘り強い守りは、占領された要塞が無力化(英語版)される前にベレスフォードの師団が到着する時間を与えた。モルティエは、成功したポルトガルへの襲撃からバダホスへ戻る途中、カンポ・マイオルの要塞を壊すため、ラトゥール=モブールを指揮官として1個歩兵連隊と3個騎兵連隊を残した。3月25日のベレスフォードの出現はフランス軍を驚かせた。しかし出発時に18,000の兵がいた連合軍に対し、ラトゥール=モブールは落ち着いて指揮を執り、バダホスへ退却した。ベレスフォードはロバート・ロング(英語版)准将と1,500騎の騎兵にフランス軍を追わせた。フランス軍騎兵の大半が第13軽竜騎兵連隊(英語版)の突撃により撃退されたが、ラトゥール=モブールへの追撃は躓いた。追撃は連携を欠いたもので、フランス軍の大部分がバダホスの要塞になんとかたどり着いた。この失敗の原因に関しては、その後、ロング准将の支持者とベレスフォード将軍との間で論争となった。
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