モルツィン伯爵家の音楽監督
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 03:28 UTC 版)
「フランツ・ヨーゼフ・ハイドン」の記事における「モルツィン伯爵家の音楽監督」の解説
おそらく1757年ごろ、ボヘミアのルカヴィツェ(Dolní Lukavice)に住むカール・モルツィン伯爵(Karl von Morzin)の宮廷楽長の職に就いた(19世紀はじめの伝記作家であるグリージンガーは1759年のこととしたが、現在ではもっと前と考えられている)。ここで最初の交響曲である交響曲第1番が書かれた。また、交響曲第37番の筆写譜には1758年の日付が記されており、これらの曲は1757年ごろに書かれたと考えられる。 この時代にハイドンは約15曲の交響曲、鍵盤楽器のためのソナタや三重奏曲、ディヴェルティメント、協奏曲、弦楽三重奏曲、管楽器のためのパルティータなどを作曲した。 1760年、マリア・アンナ・ケラー(Maria Anna Keller)と結婚した。これは彼の楽長としての地位を保持することにもなった。ただ結婚生活は幸福ではなく、子供もできなかった。マリア・アンナは1800年に没したが、最後の10年間はほとんど別居状態にあった。彼は長く付き合っていたエステルハージ家お抱えの歌手ルイジャ・ポルツェッリ夫人(Luigia Polzelli)と1人、あるいはもっと多くの子をもうけたのではないかと言われている。 ハイドンがいつまでモルツィン伯爵のもとにいたか不明だが、1760年11月26日の結婚証明書にはまだモルツィン伯爵の楽長と記されているので、それ以降と考えられる。
※この「モルツィン伯爵家の音楽監督」の解説は、「フランツ・ヨーゼフ・ハイドン」の解説の一部です。
「モルツィン伯爵家の音楽監督」を含む「フランツ・ヨーゼフ・ハイドン」の記事については、「フランツ・ヨーゼフ・ハイドン」の概要を参照ください。
- モルツィン伯爵家の音楽監督のページへのリンク