批判に対する両国の反応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 00:57 UTC 版)
「デマルカシオン」の記事における「批判に対する両国の反応」の解説
東南アジア諸島の対蹠分界線を決めるため(#教皇勅書と条約の節参照)、スペイン・ポルトガル両国から多くの学者や神父、航海士が選ばれ、それぞれスペイン国境の町バダホスとポルトガル国境の町エルヴァスに集って議論を戦わせた。16世紀スペインの年代記家フランシスコ・ロペス・デ・ゴマラ (es:Francisco López de Gómara) がその著作で、両王権の代表者として世界分割を議論する彼らを揶揄する逸話を載せている。分界の方法を議論することそのもののナンセンスを笑うこの逸話は、分割を議論する会合を同時代人がどう思っていたかを物語っていた。 サラマンカ学派の創始者フランシスコ・デ・ビトリアは教皇の贈与勅書に基づいたスペインのインディアス支配を批判した。そして、人間の権利は「自然権」であるとして異教徒であるインディオの権利を擁護し、「万民におよぶ法=国際法」を国家の法の上位に位置づけた。しかし、ビトリアは新世界との関係を諸民族間の交流(通商・航海・旅行)の自由に求め、スペインによる「新大陸」征服・統治を法的に根拠づけた。 ビトリアが、教皇が世俗世界の主ではないことを論拠とし、その贈与権に異議を唱えたのに対し、バルトロメ・デ・ラス・カサスは人道的な立場からインディオを擁護した。ラス・カサスはインディオは野蛮人ではなくヨーロッパ人と同じ人間であると説き、インディオを支配する正当性を主張するフアン・ヒネス・デ・セプルベダと論争を繰り広げた。 学士マルティン・フェルナンデス・デ・エンシーソ(スペイン語版)は、アメリカ大陸のセヌーで会った原住民に、空と大地と人間の創造者は神であり、ローマ教皇はすべての人間の魂と信仰に絶対的な権限を持つイエス・キリストの代弁者であると告げた。そして教皇が自分の主君であるカスティーリャの王にこの地をお与えになり、自分はそこを所有しようとしていると宣言する。それに対し、自分の物でもないものを他人に与えようとする教皇は他人の物にずいぶん無頓着もしくは乱暴なお方で、物乞いをするような生活に困ったお方、そして自分が知りもしない相手を脅迫して土地を奪おうとするのだから不敵なお方だと返し、他人のものを欲しがって贈与を得た国王は気が狂っているに違いないと答えたという。これもゴマラの著作に書かれたことだが、初対面の相手がこのような会話を交わせるはずが無いため、ラス・カサスはこれに関しては作り話に過ぎないとみなしている。 こうして国内外で批判が高まる中、スペイン・ポルトガル両国は世界進出に関するライバルであると同時に、分界の取り決めを共有する「同胞」意識も持っていた。両国が敵対関係でいることは分界の理念そのものの崩壊につながることから、非キリスト教世界の排他的独占のために、二強の「談合」の姿を第三国に誇示する必要があり、モルッカ諸島の領有問題が加熱していたにもかかわらず、両王室間ではいくつもの婚儀が整えられた。モルッカ諸島の領有問題解決を図るためにもたれた会議は両国以外の第三国に対する「世界分割」のパフォーマンスとしての側面があり、両国は中国や日本、フィリピンなどの帰属をめぐって対蹠分界線による分界の議論を繰り広げ、1681年から開かれた会議では南米ラプラタ川北岸のサクラメントの領有権が争点となった(#ブラジルの節参照)が、対蹠分界がヨーロッパの第三国を排除し独占的に非キリスト教世界を分配する「談合」の論理のうえに成り立っている以上、両国の交渉は決して決裂に至らなかった。
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