改革開放以前
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「中華人民共和国の経済」の記事における「改革開放以前」の解説
1949年、国共内戦に敗れた国民党政府が台湾に逃れて、中国大陸を支配した中国共産党は中華人民共和国の建国を宣言した(10月1日)。中国政府は重化学工業発展戦略を採用し、急速な産業化を最優先としている間、消費は減らされた。中国政府は経済の多くの部分を統制し、資源を建物や新しい工場の建設に振り分け、新しい産業が生み出された。より重要なことは経済成長を後押ししたことであった。予算とマネーサプライの厳しい制限により1950年末にはインフレが抑制された。また、建国から間もない1950年6月30日、中華人民共和国土地改革法が公布された。政府からの指導と農民たちの地主に対する自主的な闘争も相俟って、「1952年春には土地改革は既に全国的に範囲にわたって基本的に完成した」と宣言された。自分で耕す田畑を持つことにより、農民の生産意欲は向上し、1952年の農産品の約半数の項目で1949年以前の最高を突破した。 こうして、日中戦争、国共内戦による経済のダメージから中国の経済は回復していった。ちなみに第二次世界大戦直前の1937年のGDPランキング(植民地含む)では1位アメリカ合衆国、2位大英帝国(イギリス)、3位ソビエト連邦、4位ナチスドイツ、5位中華民国、6位大日本帝国、7位フランスという順であった。 1952年の中国の工業生産高は当時の価格換算で349億元と推定されている。それは当時の世界のGDPの約3%を占め、日本やインドのGDPの1.5倍であった(しかし、一人当たりGDPではない)。1950年代の日本の人口が8360万人で中国は5億4480万人であったため、中国の社会・経済に混乱を引き起こした文化大革命(文革)前の中国の経済は、文革後ほどの貧困ではなかった。一人当たりGDPも1960年代はわずか17%しか成長しなかった。1960年の時点で、日本のGDPは中国と同レベルだった。 その後、第1次五カ年計画(1953 - 1957年)でソビエト連邦型の計画経済を模倣し、重化学工業への投資を行い、経済成長を達成した。 毛沢東は1958年に当時世界2位の経済大国であったイギリスを追い抜くために野心的な計画の遂行を指示した。農業の集団化(人民公社)を行い、農民を大量に動員しての鉄鋼増産が行われたが、鉄鋼生産に伴う環境破壊は農業生産量の減少を引き起こし、最終的には数千万人の餓死者を生み出し失敗に終わった(大躍進政策)。 大躍進政策の失敗により、毛沢東は最高権力者の地位をいったん降り、劉少奇、鄧小平らが、経済調整を行った。農村の集団化の見直しを図り、農家にわずかではあるが自由に耕作できる農地を与え、農業生産のインセンティブを付与した。 しかし、毛沢東が文化大革命を発動して復権すると、劉少奇や鄧小平らは失脚した。この間、知識青年が都市から農村に学習の為に下放されたり、毛沢東謁見の為に紅衛兵を輸送したりしたことにより経済活動は停滞した。
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改革開放以前
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第1次5カ年計画(1953年から1957年)の開始以来、1978年12月の中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議(中共11期3中全会)まで一貫して、国営の重工業部門が中国経済の中核に位置した。資本集約型の近代産業化という発展方式のもと貧しい農業国段階を脱し、豊かな社会主義国家を実現しようとしたのである。しかし、重工業部門が立地するのは都市であり、重工業化の進展は都市労働者の増加を招き、それに見合う食料の供給を要求する。他方当時の中国農業の所得水準と労働生産性は低く、農村での食料の自家消費比率が高くなり、そのため都市に向けての商品化食料は乏しかった。そこで1953年11月の『食料の計画買付けと計画供給の実行に関する命令』により、「統一買付・統一販売」制度が設けられた。この制度の下では、農民は食糧を私営商人に販売することが禁じられ、すべての余剰部分を国家の定めた低い買付価格により国家指定の商業部門に売り渡すことが強要され、その食料は都市住民に低価格で統一的に販売された(統一買付・統一販売)。こうして都市・農村の二元的役割分担が進む中、都市工業化の進展による雇用機会の増加、「統一買付・統一販売」制度の実施による農村における食料危機、農村余剰食糧を確実に吸収することを狙った農業集団化に起因する農民の生産意欲の低下、国営企業の各種福利厚生サービスを含む都市・農村間の経済格差の発生により、1950年代には農村から都市への大規模な人口流入が発生した。都市人口は1953年の7800万人台から1959年の1億2300万人台へと4500万人も増加した。これにより都市では、流入人口による職業・食料・生活用品・住居の不足と国家の都市に対する負担が過重になった。他方農村では、労働力の流出により農業生産が打撃を受けるようになった。そこで政府は、1953年から1958年にかけて数次の指示・通知により、農村から都市への盲目的流入いわゆる「盲流」を禁止するように呼びかけた。しかしながらこうした規制や、都市から農村への強制送還も効果が薄かった。政府は農村労働力管理システムとしての農村の集団化(のちに人民公社につながる)や都市部から農村部への大規模な政策的人口移動(いわゆる「下放運動」といった一連の政策をとると同時に、人口管理の法的システムを整えるために戸籍管理制度の整備・確立をはかる方針に進んだ。
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