改革開放以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 05:27 UTC 版)
「中華人民共和国大飢饉」の記事における「改革開放以降」の解説
1978年12月、鄧小平は中国の新しい最高指導者となり、中国の農業および産業システムを根本的に変えた歴史的な改革開放計画を開始した。 1980年代初頭まで、「3年自然災害」という名称に見られるように、中国政府のスタンスは飢饉は主に一連の自然災害にいくつかの計画の誤りが合わさった結果であるというものであったが、 「撥乱反正(中国語版)」期間中であった1981年6月に、中国共産党は飢饉の名称を正式に「3年困難」に変更し、飢饉は主に大躍進政策と反右派闘争の過ちに加えて、いくつかの自然災害と中ソ対立によるものであると改められた。 中国大飢饉に関する学術研究は、1980年以降、中国本土でも活発になり、政府が人口統計データを公開するようになった。 他方で、大飢饉・文化大革命・LGBTなどを積極的に取り扱ってきた「中国独立映像展」の主催団体が2020年に活動休止に追い込まれるなど、現状においては中国国内はこの悲劇について自由に検証・議論ができる環境にあるとは言い難い。中国国外の研究者たちは、大躍進政策による大規模な制度や政策の変更が飢饉の主な要因であり、少なくとも自然災害を悪化させたと主張している。特にノーベル賞受賞者のアマルティア・センは、「実際、民主主義の国では、どんなに貧しくても、実質的な飢饉は発生していない」として、世界的状況から見て民主主義の欠如がこの飢饉の主な原因であると主張している。 定期的に世論調査が行われ、独立した報道機関がある国で、このようなことが起こりうるとは想像しがたい。その恐ろしい災厄の間、政府は、統制された新聞からの圧力に直面しておらず、野党からも圧力を受けていなかった。 —アマルティア・セン、
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