第11期三中全会から1980年代
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「中華人民共和国の経済」の記事における「第11期三中全会から1980年代」の解説
1976年に毛沢東が病没し、四人組が逮捕されると鄧小平は権力を奪取した。そして、1978年の第11期三中全会で改革開放路線が採用され、従来のソ連型の計画経済は否定され、市場指向型の経済に大きく舵を切った。 1980年代になると、中国政府は中央集権の計画経済とインフレや失業、財政赤字無しに生産性と生活水準、技術水準を増大させる為の市場指向型の経済を組み合わせようとした。中国政府は人民公社を解体し、農民に、農作の決定権を与えるという生産責任制を採用する農業改革を実行した。また、農村部で郷鎮企業といった非農業活動を勧め、より自発的な国有企業の経営を推奨し(従来は中央の管理下にあった)、市場競争を強め、中国大陸と外国企業との直接の接触を促進した。その上、中国政府は改革開放以前の時よりも、外資や輸入に依存した。 中国の最高指導者である鄧小平は1984年6月30日、次のように発言した。 社会主義とは何か? そしてマルクス主義とは何か? 我々は過去、このことについてあまりはっきりとさせてこなかった。マルクス主義は生産力を増加させることをことさら強調した。我々が言ってきたことは社会主義は共産主義の第一段階であること、そして、発展段階では能力によることから必要性によることにいたるまでの原則があてはまるということである。その原則は高度に発達した生産力と物質的豊かさを要求している。それゆえ社会主義の段階への基本的な課題は生産力を増加させることである。資本主義体制下での生産力よりも早く、大きく社会主義体制下での生産力が増加することによって、社会主義体制における優越性が示される。生産力が増加するにつれ、人民の物質的・文化的生活は絶えず発展する。中華人民共和国建国後の我々の欠点は生産力を増加させることに気づかなかったのである。社会主義は貧困を根絶することを意味する。平等主義は社会主義でなく、いわんや共産主義でもない — 英訳より引用者により重訳。 そして、1984年、4つの経済特区(北から廈門、汕頭、深圳、珠海)と14の対外開放都市(大連、秦皇島、天津、煙台、青島、連雲港、南通、上海、寧波、温州、福州、広州、湛江、北海)を設置し、外資を呼び込んだ(その後、海南省が経済特区に指定された)。 1980年代の間、経済改革により農業及び工業生産高が毎年約10%で成長した。農村の実質所得は2倍になった。中国は穀物を自給できるようになった。農村工業は農村における過剰労働力の吸収に役立った。様々な軽工業の品々や消費財が増加した。経済改革は、財政面、金融面、物価の安定、労働市場の面で始まった。 経済成長の暗黒面として、中国は社会主義の最悪の結果(官僚主義、汚職、財産権の侵害)と資本主義の最悪の結果(貧富の格差、急激なインフレ)に直面することになった。中国政府は定期的に中央集権による引き締めと緩和の政策を行った。1988年の終わりには、価格改革の急速な進展によってもたらされたインフレへの対応として、緊縮財政を実行した。
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