甘露寺忠長とは? わかりやすく解説

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甘露寺忠長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/18 13:33 UTC 版)

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甘露寺 忠長
時代 室町時代前期 - 室町時代中期
生誕 応永元年(1394年)?
死没 永享8年5月15日1436年5月30日
官位 正四位下蔵人頭右大弁
主君 称光天皇後花園天皇
氏族 甘露寺家藤原北家勧修寺流
父母 父:甘露寺清長、母:素性不詳
素性不詳
郷長(従五位下、出家)・康長(従五位上右兵衛佐、出家)
特記
事項
清長系断絶。
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甘露寺 忠長(かんろじ ただなが)は室町時代前期の公家。甘露寺清長の子。正四位下蔵人頭右大弁

甘露寺家の嫡流に生まれたが、父の清長が応永21年(1414年)8月に34歳で没したため、祖父兼長によって、家督は叔父の房長が継いだ(『建内記』嘉吉1年12月26日条)。

左衛門佐を経て、応永32年(1425年)6月7日、権右中弁となる(『弁官補任』『薩戒記』)。同年11月、房長が勅勘を受けて除籍された際、称光天皇からその闕に任じるよう足利義持に提案があったが、実現しなかった(『薩戒記』16日条)。『薩戒記』によれば、この頃、忠長は房長との仲が悪化していた。翌33年12月18日、右中弁に転じ(『弁官補任』)、同34年6月20日、五位蔵人に任じられる(『職事補任』)。正長元年(1428年)11月3日、房長と同時に後花園天皇蔵人頭に任じられ、同時に右大弁に昇進する。

その後、房長は病を得たため、永享2年(1430年)11月に職を辞して蟄居し、将軍足利義教の許可を得て、家督を忠長に譲り、自身と子息の扶持を頼む(『建内記』永享11年6月9日条・嘉吉1年12月26日条等)。永享4年(1432年)7月の義教の内大臣就任に伴っては、室町殿家司に任じられる(『師郷記』)。

しかし、永享6年(1434年)2月、義教の側室・日野重子が義教の嫡男(後の足利義勝)を出産した際、大勢の人々が日野家に祝いに駆け付けた事を知った義教が、その人々の真意を疑ってことごとく処罰した際に、忠長も所領・邸宅を没収され、家督を房長の遺児である親長に譲るように命じられた(『看聞日記』永享6年2月16日、3月9日条等)。その後も頭弁として朝廷に仕えたが、2年後の永享8年5月15日、急逝した。貞成親王は、「有職抜群洪才の者」とその才能を評価し、その早すぎる死を惜しむ記述を『看聞日記』に遺している。

郷長(今丸)・康長の2児があり、忠長の死後、親長に養育されていたが、両名とも、忠長の生前より三宝院三千院への入門が約されていたという(『建内記』嘉吉1年7月18・19日条)。嘉吉元年(1441年)、郷長は嫡流として家督を継ぐことを主張して訴訟を起こしたが(『建内記』嘉吉1年12月26日条)、数年の後、失敗に終わり、郷長・康長ともに、最終的には出家したと見られる(『尊卑分脈』)。また、家業の基盤となる甘露寺家の記録類の多くは、永享6年2月の後も親長に渡されず、忠長死後には、忠長母の禅尼が諸方に売却してしまったという(『建内記』永享11年6月9日条)。

参考文献




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