覚勝院
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覚勝院
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「覚勝院」(江戸時代中期以降の文献ではしばしば「覚性院」と記されていることもあるがおそらく宛字であると見られ、また「覚正院」と記されている資料もある)は、もともとは大覚寺の塔頭のことであり、その主の院号のことでもある。「覚勝院」と称した人物は、室町時代から江戸時代にかけて多くの資料に現れていることから、おそらく一人の人物ではなく何代かにわたって使用された名称であると考えられる。この『覚勝院抄』を著した「覚勝院」は、しばしば『実隆公記』に登場し三条西実隆と『源氏物語』などについて議論を交わしている人物であると考えられており、この時期甘露寺房長の子良助、房長の子甘露寺親長の子了淳及び長深、親長の子である甘露寺元長の子時詔など甘露寺家の者が覚勝院と関わる形で僧侶となっているためこの中の誰かがこの「覚勝院」ではないかと考えられている。
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