洞院実煕とは? わかりやすく解説

とういん‐さねひろ〔トウヰン‐〕【洞院実熙】

読み方:とういんさねひろ

室町時代公卿。初名、実博。左大臣となったが、のち出家して元鏡称し東山閑居有職故実明るく東山左府よばれた。著「名目鈔」など。生没年未詳


洞院実熙


洞院実熙

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/21 09:21 UTC 版)

 
洞院実煕
時代 室町時代前期 - 中期
生誕 応永16年(1409年
死没 長禄3年11月10日1459年12月4日
改名 実博→実熙→元鏡(法名)
別名 東山左府、東山左大臣
官位 従一位左大臣
主君 称光天皇後花園天皇後土御門天皇
氏族 洞院家
父母 父:洞院満季、母:法印兼真の娘
兄弟 実煕、西御方
養兄弟:禅信
公数、守誉
養子:公連
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洞院 実熙(とういん さねひろ)は、室町時代前期から中期にかけての公卿内大臣洞院満季の子。官位従一位左大臣。初名は実博(読み同じ)。

経歴

左近衛中将伊予権守を経て、応永31年(1424年)11月従三位に叙せられ公卿に列する。

正長元年(1428年)3月参議を経ずして権中納言となるも、正長2年(1429年)院御所女房大弐局(半井明茂の女)との密通が発覚し、勅勘を蒙って解官され、父・満季からも義絶された。翌永享2年(1430年)3月赦免されて権中納言に還任し、永享4年(1432年)7月権大納言へ昇進。内教坊別当を経て、嘉吉2年(1442年)には右近衛大将右馬寮御監を兼ねる。

文安3年(1446年)1月内大臣に昇り、さらに文安4年(1447年)3月には左近衛大将を兼ねたが、文安5年(1448年)2月早くも大将を辞し、宝徳2年(1450年)4月従一位に叙されると、程なく内大臣も辞した。

享徳3年(1454年)7月右大臣に至り、次いで康正元年(1455年)8月左大臣に任じられたが、同3年(1457年)4月に辞職、6月出家し、東山で隠居生活を送った。法名を元鏡という。

没年は従来不明とされてきたが、近年、綾小路有俊の記した寛正5年(1464年)の「殿上淵酔記」(加越能文庫本『松雲公採集遺編類纂』8所収)によって長禄3年(1459年11月10日に薨去したことが明らかにされた[1]。享年51。

日記に『東山左府記』(『実熙公記』『東山殿記』とも)があるが、永享4年(1432年)・享徳2年(1453年)の記事が断片的に伝存するのみである。

実煕の子の公数(きんかず)は文明二年(1470)に権大納言・左近衛大将を辞して、文明八年(1476)に出家し洞院家は断絶した。本家筋の西園寺家が公連(きんつら)に洞院家を相続させたが、再興できずに文亀元年(1501)に出家し、洞院家の断絶が確定した[2]

洞院家が所蔵していた記録、文書類は中院通秀らに売却され[3]郢曲内侍所御神楽の所作人は四辻季春が継承した[4]

逸話

伝足利義政像
  • 応永27年(1420年)12歳で昇進の困難さを悟って出家を志したが、足利義持後小松上皇から家領を還付されたために思い止まったという。
  • 学者として朝儀典礼に通暁し、自ら『名目鈔』(未定稿)を編んだ。これは故実の名目に片仮名で訓を付し、一部に注釈を加えた辞典である。
  • 雅楽にも堪能で、後小松上皇からを相承し、宝徳2年(1450年)3月後花園天皇に対しては師範としてこれを伝授した。翌月の従一位叙位はその恩賞である(『公卿補任』)。
  • 室町時代の公家は経済的に不安定であったが、特に洞院家のような清華家は衣装代・公卿から雑色・牛飼までに及ぶ多数の随行者の確保などを要したことで一層の困窮に陥っていた。実熙は「番々の輩(羽林家名家以下)の如く成り下がる事はできない」と嘆いたとされ、次代である公数の家領・文書の売却及び出家による洞院家の自主的とも言える断絶に至る布石となったとする見方がある[5][6]
  • 宮内庁書陵部所蔵桂宮本には、実熙が後花園天皇などに宛てた仮名消息35通が伝存し、中には彼の人となりが窺える内容のものもある。
  • 大和画の流派の土佐派(土佐家)に伝来した重要文化財「伝足利義政像」(東京国立博物館蔵)について、この肖像は、江戸時代後期から足利義政像とされてきたが、実はこの肖像画の人物が東山殿と呼ばれた義政であるという確証はなく、近年、像主を東山左大臣洞院実熙と推定する新見解が出されている[7][8]

系譜

『系図纂要』による。

脚注

  1. ^ 小川剛生 「高松宮家伝来の禁裏文書について―室町後期より江戸前期にいたる「官庫」の遺物として―」(『中世近世の禁裏の蔵書と古典学の研究 研究調査報告1』 同研究プロジェクト、2007年、NCID BA8183045X
  2. ^ (中本真人『なぜ神楽は応仁の乱を乗り越えられたのか』新典社、2021年12月22日、84頁)
  3. ^ (中本真人『なぜ神楽は応仁の乱を乗り越えられたのか』新典社、2021年12月22日、84頁)
  4. ^ (中本真人『なぜ神楽は応仁の乱を乗り越えられたのか』新典社、2021年12月22日、104‐105頁)
  5. ^ 末柄豊「洞院公数の出家」田島公 編『禁裏・公家文庫研究第一輯』(思文閣出版、2003年)
  6. ^ 井原今朝男「室町廷臣の近習・近臣と本所権力の二面性」『室町期廷臣社会論』(塙書房、2014年)
  7. ^ 落合謙暁 「土佐家伝来の伝足利義政像について」(『日本歴史』第772号 吉川弘文館、2012年9月、NCID AN00198834
  8. ^ 実際この画中にて、像主の家紋を入れる故実(大和絵肖像画上のルール)があるの縁、鏡台蒔絵指貫などの装束に「左三つ巴」紋が散りばめられている。足利家の紋は桐紋で、他の足利家の肖像画でもそのように描かれるのが通例なため、この伝足利義政像の像主は足利家の人物(それも当主の義政)とするには疑問が残る。そこで、左三つ巴紋は西園寺家庶流の家紋であり、画中に親王か大臣以上が用いる大紋縁の畳が描かれていることから、家紋は不明だが大臣を輩出する洞院家の誰か、特に東山左大臣と呼ばれた洞院実熙の可能性が高い。この肖像が画中の家紋を無視して義政像とされてきた理由は、本来の表具や箱などに記されていたと思われる「東山左大臣」を、義政の称号「東山殿」と混同し、「東山左大臣」の表記が失われた後も義政像という伝承だけは残ったためだと推定する説がある。(落合謙暁 「土佐家伝来の伝足利義政像について」日本歴史学会日本歴史』 吉川弘文館、2012年9月号所収。NCID AN00198834)。

参考文献

  • 坂本麻実子 「15世紀の雅楽界(8) 洞院家三代と雅楽」(『MLAJ newsletter』Vol.7,No.5 音楽図書館協議会、1986年1月、NCID AN10146655
  • 末柄豊 「洞院公数の出家―東山御文庫本『洞院家今出川家相論之事』から―」(田島公編 『禁裏・公家文庫研究 第1輯』 思文閣出版、2003年、ISBN 9784784211432
先代
洞院満季
洞院家当主
9代
次代
洞院公数



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