今出川公興とは? わかりやすく解説

今出川公興

読み方いまでがわ きんおき

室町後期公卿歌人今出川教季の子。初名は公尚、法号は後法雲院菊亭称する従一位左大臣に至る。「文亀三年歌合」等に出詠している。永正11年(1514)歿、69才。

今出川公興

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/27 15:05 UTC 版)

 
今出川公興
時代 室町時代後期 - 戦国時代
生誕 文安2年(1445年[1]/文安3年(1446年[2]
死没 永正11年2月4日1514年2月28日[1][2]
改名 公尚(初名)→公興
別名 号:後法雲院
官位 従一位左大臣
主君 後土御門天皇後柏原天皇
氏族 今出川家
父母 父:今出川教季、母:高倉永豊の娘
兄弟 公興伏見宮邦高親王
勧修寺教秀の娘
季孝、興子
花押
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今出川 公興(いまでがわ きんおき)は、室町時代後期から戦国時代にかけての公卿左大臣今出川教季の子。官位従一位左大臣

経歴

初名は公尚(きんなお)。文明5年(1473年)に従三位左近衛中将となり、公卿に列する。文明6年(1474年)に公興と改名する。文明7年(1475年)に権中納言に任ぜられ、文明8年(1476年)には正三位に進む。文明12年(1480年)に権大納言となる。延徳元年(1489年)には従二位に進み、右近衛大将内大臣に任ぜられる。延徳2年(1490年)には正二位に進む。延徳3年(1491年)に辞したが、明応4年(1495年)には従一位に進む。明応5年(1496年)に右大臣となる。明応6年(1497年)には左大臣へ昇格し、永正2年(1505年)まで同職にあった[1]

系譜

脚注

  1. ^ a b c 野島寿三郎『公卿人名大事典』日外アソシエーツ、1994年、p.80
  2. ^ a b 今出川公興とは”. コトバンク. 朝日新聞社. 2017年11月16日閲覧。



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