反乱と戴冠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 06:37 UTC 版)
「ステファン・ウロシュ3世デチャンスキ」の記事における「反乱と戴冠」の解説
コンスタンティンがウロシュ3世への服従を拒んだために王位を巡る内戦が勃発、ウロシュ3世はゼタを攻撃し、コンスタンティンを殺害する。勝利の後、1322年1月6日にウロシュ3世は大主教ニコデモより戴冠を受け、彼の子のドゥシャンも若王として戴冠された。ドゥシャンはゼタを領地として与えられたが、これは彼を後継者に指名するというウロシュ3世の明らかなメッセージだった。一方、ウロシュ3世の従兄弟であるステファン・ヴラディスラヴ2世(en:Stephen Vladislav II of Syrmia)は、父のステファン・ドラグティン王より与えられた領地のルドニク(英語版)地方で兵力を集めていた。ヴラディスラヴ2世は王を自称し、ハンガリー人の支援を受けて領内の統制を高め、デチャンスキに戦いを挑まんとした。ウロシュ2世とドラグティン兄弟の時代と同じくセルビアは2人の統治者によって分割されていたが、内戦が起きていた1322年から1323年の間、ドゥブロブニク(ラグーザ)の商人は2人の統治者の領土を自由に行き来していた。 従兄弟同士の争いは1323年に終わりを告げる。1323年末にウロシュ3世の派遣した役人がルドニクの市場を掌握すると、ヴラディスラヴ2世は北方への亡命を考えるようになる。ドゥブロブニクの商人Menčetが指導するヴラディスラヴ派の人間はオストロヴィツァ近郊の城砦に立て籠もってウロシュ3世に抵抗すると、ウロシュ3世はドゥブロブニク市に使節を送ってドゥブロブニク内のヴラディスラヴ派の行動に抗議した。しかし、ドゥブロブニクはセルビアの要求を拒絶し、オストロヴィツァには依然としてヴラディスラヴ派のセルビア人が立て籠もっていた。 ウロシュ3世はドゥブロブニクの対応に不満を抱き、1324年にドゥブロブニクの商人を探し集めて彼らの財産を没収し、身柄を拘束する。年末にルドニクを回復するとドゥブロブニク商人を解放して彼らに財産を返還し、また敗れたヴラディスラヴはハンガリーに亡命した。 ウロシュ3世は北方の領域をサヴァ川、ドナウ川の沿岸部にまで広げようとするが、ハンガリーに阻まれて失敗した。また、ドゥブロブニクとの緊張も続いた。ドゥブロブニクとの商取引が禁止されたため、1325年の8月にセルビアの貴族Vojvoda Vojinがドゥブロブニクを略奪する事件が起き、ウロシュ2世の時代にドゥブロブニクに授与された特権が再度主張された。両勢力の対立は、ウロシュ2世の没後にフムを奪回したボスニアとドゥブロブニクが接近した折に再び顕著になる。
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