増大する影響力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/27 02:28 UTC 版)
「パリの王党派通信連絡組織」の記事における「増大する影響力」の解説
3人のエージェントは「ジュルナル・ジェネラル」の事務所やサン=ブリス=スー=フォレ(英語版)にあったルイ=フランソワ・ド・ラ・トゥールの印刷所で会っていた。彼らはこれらの会合でアントレーグ伯爵に手紙を書き、伯爵はそれをコピーし、修正を加えた上でヴェネツィアのスペイン大使に送っていた。手紙は当初はわかりやすく書かれていたが、すぐに行間が広く空いた、とるに足らない商業用手紙の形をとるようになった。手紙の行間には不可視インク、すなわちレモン汁を使って文章が書き加えられていた。エージェントはいくつかの方法で情報を収集した。初めは1792年8月10日まではまだ自由であった新聞から。その後はカフェやクラブ、サロンで聞き集めてきた会話によって。そして最後に、かってアントレーグの家庭教師であったカノン=ジャン・メイドゥーやトロワの司教総代理、前警察長官のニコラ・スルダ、ケルシー選出の憲法制定国民議会の代議士ジャン=フェリクス・ファイデル(フランス語版)、アントレーグ伯爵の友人でラテル師またはベスナールと名乗る人物(伯爵は彼を憲法制定国民議会の事務局に送り込み、その後彼は陸軍省の事務局に移った)のような「よく知られた」人物との接触を通じて。情報網は少しずつ広がっていった。1792年にはアルトワ伯が情報の受信者としてスペイン大使館に追加された。スペイン政府は1791年10月8日に彼らに報酬を支払うことを決定していた。その後情報網は、ブロティエ神父(英語版)と、おそらく代議士であったバルテルミー・シテラ(フランス語版)を組織に加えるだろう。 1792年4月に革命政府がボヘミア・ハンガリー国王に宣戦布告した後、「製造所」は地下に潜伏して、アントレーグ伯爵とのやり取りが傍受されないための予防措置を強化しなければならなくなった。革命家たちが徐々にヨーロッパ諸国との戦争に突入していく中、各国はそこで何が起こっているかについての情報を得たいと望むようになった。その後、アントレーグはメンドリシオから連れてきた来た巨大なスパイ組織の長になり、1794年の夏までスイスに住んでいた。1794年7月、アントレーグはスパイ網の新たな中心となったヴェネツィアに移り住み、摂政を宣言してヴェローナに摂政府を設置したプロヴァンス伯に情報を伝えた。アントレーグはまた、イギリスの駐ヴェネツィア領事フランシス・ドレイクを通じてイギリスに、またロシア、ナポリ、リスボンにも情報を伝えている。1794年9月には16人のエージェントが集まり、ボメルの指揮のもと情報を伝えるニュースレターを作成した。この公報には、レモン汁または化学製品で書かれた文書が補足されていた。
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