増助郷政策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 20:54 UTC 版)
幕府は増助郷政策を行い宝暦・天明年間には取り割り当てが増加し百姓負担が増加していた。幕府による増助郷は一方で助郷の専業者や助郷役の代勤(雇替え)が浸透するなど農村社会の弛緩を招き、また助郷をめぐり定助郷村と非定助郷村間の対立も発生していた。明和元年2月には大宮・上尾・桶川三宿の惣代や川田谷村名主高橋甚左衛門らが助郷村の拡大を訴願している。 明和元年(1764年)には朝鮮通信使が来日し、幕府は使節の通過する東海道・中山道(板橋宿から和田宿に至る28宿)沿いの諸宿に対して村高100高につき金三両一分余の国役金納入を命じられ、さらに12月に翌年の日光東照宮150回忌に備えた人足と馬の提供を求めようと各村役人に出頭を求める増助郷策が続いた。
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