反乱とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/17 03:34 UTC 版)
「フレッチャー・クリスチャン」の記事における「反乱とその後」の解説
1789年、バウンティ号がタヒチから西インド諸島に立った時、クリスチャンら乗組員たちが、ブライに対しついに反乱を起こした。反乱の後、クリスチャンと支持者の水夫たちはブライとブライの支持者たちをバウンティ号から追放し、バウンティ号を乗っ取ってタヒチへ戻った。 1789年9月にクリスチャンは南海の未知の島に定住しようと覚悟を決め、22人の反乱者のうち、14人をタヒチに残し、12人のタヒチ人男女数人(クリスチャンが恋をしたMaimitiも含む)を連れて、隠れ住むための未知の無人島を探しに航海にでた。1790年1月15日にクリスチャンたちはピトケアン島に辿り着き、ここに住みついた。1793年、一緒に連れて来たタヒチ人の反乱によって5人が死んだ。クリスチャンも巻き込まれて死んだとされているが、イギリスの捕鯨船などでイギリスに戻ったと言う噂もあった。 1790年、クリスチャンと妻の1人Maimitiとの間に長男サースディ・オクトバー・クリスチャンと次男チャールズ・クリスチャン、長女メアリー・アン・クリスチャンが生まれている。息子のサースディ・オクトバー・クリスチャンは反乱事件から18年後の1808年2月、アメリカの捕鯨船トパーズ号がピトケアン島を初見した時、彼はカヌーでトパーズ号に近づき、メイヒュー・フォルジャー船長を出迎えた。そして流暢な英語でフォルジャー船長に挨拶をし、自分はフレッチャー・クリスチャンの息子である事などを明かした。島に上陸したフォルジャー船長は老いたジョン・アダムズや子供達やポリネシア人の女性達と出会っている。 オクトバー・クリスチャンにはサースディ・オクトバー・クリスチャン2世(英語版)ら6人の子供がおり、ピトケアン諸島の島司を務めたスティーブ・クリスチャンはオクトバー・クリスチャン2世の子孫であった。 映画『戦艦バウンティ』(1960)のために建造されたレプリカ船バウンティ(en)は、撮影後は実際に帆船として運用されていたが、2012年のハリケーン・サンディに遭遇して沈没した。死亡した船員のクローデン・クリスチャンは、フレッチャーの子孫であるという(バウンティ (帆船)#再建造)。 小惑星(3265) Fletcherはフレッチャーにちなんで命名された。
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