モラヴィア公
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 15:54 UTC 版)
10世紀前半のモラヴィアはチェコ人諸侯とマジャール人の緩衝地帯となった。恐らくは、その地域諸侯は存在したであろうが、名前は知られてはいない。10世紀後半にモラヴィアはボヘミアのプシェミスル朝の支配下に置かれ且つボレスラフ1世残酷公によってボヘミアに併合された。1003年にモラヴィアはポーランド国王ボレスワフ1世勇敢王によって占領された。モラヴィアは1019年までポーランドの支配下に置かれたが、その間、オルドジフ はモラヴィアを奪還することが出来なかった。 モラヴィア公 (1019年—1197年): プシェミスル朝№名前肖像画生年没年統治期間備考1 ブジェチスラフ1世 1002/1005年 1054年 1019年—1033年 オルドジフの息子で1019年に父のモラヴィアに据え置く。 2 オルドジフ ? 1034 1033年—1034年 1012年以降ボヘミア公、1033年に息子により追われた。 3 ブジェチスラフ1世 1002/1005年 1055年1月10日 1034年—1049年 再位。父の死後にボヘミアとモラヴィアの公となる。 4 スピチフニェフ2世 1031年 1061年1月28日 1049年—1054年 ブジェチスラフ1世の長子、1049年にモラヴィア公となり同地を父が死ぬまで統治した。 1054年にボヘミア公ブジェチスラフ1世は、年長の者がプラハを統治し、年少の者がモラヴィアを相続して年長の公に服従すべきであると決めた。これに従う形でブジェチスラフ1世の長子であるスピチフニェフ2世が1055年にボヘミア公の位についた。モラヴィアはブジェチスラフ1世の次男、三男が互いに二つに分けることで相続した。 ヴラチスラフ2世はオロモウツの支配者としてのモラヴィアの一部(オロモウツ公国)を、コンラード1世はその残りをブルノの支配者として(ブルノ公国として再編)それぞれ相続した。後にズノイモ公国が分離した。
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