大モラヴィア公とは? わかりやすく解説

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大モラヴィア公

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 15:54 UTC 版)

モラヴィア君主一覧」の記事における「大モラヴィア公」の解説

初期モラヴィアサモ王国構成部を成していた。822年モラヴィアチェコスロヴァキアハンガリー及びシレジア一部領域をも含む大モラヴィア中核となった王国統治したのはスラヴ人家系であるモイミール家である。しかし、9世紀末に内乱に陥り、907年マジャール人侵入後に王国崩壊した。 大モラヴィア公 (833年907年): モイミール朝№名前肖像画生年没年統治期間備考1 モイミール1世 795年頃? 846年? 830年?—846年 最初に確実に知られるモラヴィア君主大モラヴィア創始者でモイミール家出身。 2 ラスチスラフ ??? 870年846年870年 モイミール1世の甥。東フランク国王 ルートヴィヒ2世臣従する。870年廃位された上に盲目にされる。 3 スヴァトプルク1世 830年894年 871年894年 ロスチスラフの甥で850年末にニトラ公となる。871年ロスチスラフに対して反乱起こして国権掌握するスヴァトプルク1世統治下で大モラヴィア権威頂点に達する。 4 モイミール2世 ??? ??? 894年907年? スヴァトプルク1世息子領地一部受け取り兄弟のスヴァトプルク2世ニトラを、同じく兄弟の プレドスラフは現代ブラチスラヴァ地域受け取った。モイミール2世最後に知られた大モラヴィア公であり、マジャール人侵入後に王国消滅した

※この「大モラヴィア公」の解説は、「モラヴィア君主一覧」の解説の一部です。
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