大モラヴィアの時代
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「スロバキアの歴史」の記事における「大モラヴィアの時代」の解説
詳細は「en:Great Moravia」を参照 糾合されたスラブ人諸部族がドナウ川北に居住した830年ごろに大モラヴィアは興隆し、この地域での優位を拡大した。846年にモラヴィア公モイミール1世が東フランクの王の優位から離脱する努力をしたとき、ルードヴィヒ2世王は彼を斥けて、王座につくようモイミール1世の甥のラスティスラフ (846年–870年)を支援した。新しい王権は独自路線を追求した。855年のフランク王国の攻撃を止めたのち、新王は、領内でのフランク王国の僧侶の伝道を弱体化させる方法を探した。ラティスラフはビザンツ帝国のミカエル3世にスラブ語にキリスト教を翻訳する教師の派遣を要請した。ラティスラフの要請を受けて、863年にビザンツの公式の伝道師、聖キリルとメトディオス 兄弟がモラヴィアに来訪した。二人は最初のスラブ語のアルファベット、グラゴル文字を発展させて、福音書を教会スラブ語に翻訳した。ラティスラフはまた国家の防衛と統治に腐心した。国中にある数々の要塞化された城は彼の治世に造営されたものであり、その中には(e.g., Dowina - w:Devín Castle)フランク王国の年代記によってラティスラフとの関係が言及されるものもある。彼の治世に、ニトラ公国は彼の甥のスヴァトプリックに封地として与えられた。870年、この反逆的な公は自身とフランク王国と追放したおじと同盟を結んだ。先代と同様に、スヴァトプルク1世 (871年–894年)は「王(rex)」の称号を自称した。彼の治世には、大モラヴィア帝国は、その版図の拡大が最大に達していた。このときには、現在のモラヴィアとスロバキアのみならず現在の北部および中央ハンガリー、下オーストリア、ボヘミア、シレジア、ルサチア、南部ポーランド、北部セルビアをもこの帝国に属していた。しかし彼の版図の正確な境界はいまだに現代の歴史家によって議論されているスヴァトプルクはまた半遊牧のハンガリー諸部族とブルガリア帝国の攻撃に耐えた。 しかしながら、彼は東フランク王国にたいする戦いのときにおいてはハンガリー人を傭兵に雇った。880年に教皇ヨハネス8世が、大司教の聖メトディウスをその長とする独立した教区を大モラヴィアに設置した。彼はまたドイツ人聖職者のヴィティニングをニトラの司教に任命した。894年のスヴァトプルク王の死後、その息子モイミール2世 (894年-906年?)とスヴァトプルク2世は、大モラヴィア王位とニトラ公位をそれぞれ継承した。ところが、かれらは帝国全体の支配をめぐり争いを開始した。帝国は、東フランク王国との絶え間ない攻防戦とよるものと同様に国内の紛争によっても弱体化し、大モラヴィアは周辺の領域のほとんどを失うことになった。そのころ、ハンガリー諸部族は、遊牧民のペチェネグ人からの打撃に苦しんできたので、カルパチア山脈の東の版図を離れ、パンノニア平原を侵略し、896年ごろにはその領域を徐々に占領していった。ハンガリー諸部族の軍隊の進展は、当該地域の統治者がハンガリー諸部族の闘争に介入するために、彼らを傭兵に雇った地域の国々の間での戦争の継続によって、推進された。 モイミール2世とスヴァトプルク2世の両方ともおそらく、904年から907年の間のハンガリー諸部族との間の戦闘で死亡したと考えられる。なぜならば彼らの名は906年の文書史料には言及されていないからである。ブレザラウスプルク(Brezalauspurc いまのブラチスラヴァ)近郊での三つの戦闘(ブラチスラヴァの戦い) (907年7月4–5日、8月9日)において、ハンガリー人はバイエルン人軍を引き入れた。歴史家は伝統的にこの年を大モラヴィア帝国の崩壊と位置付ける。大モラヴィアは後世にいまなお残る遺産を中央および東ヨーロッパに残した。グラゴル文字とその後継文字であるキリル文字は他のスラブ人諸国に伝播し、その文化的発展において新たな道を引いた。大モラヴィアの統治機構はハンガリー王国の統治機構の発展に影響を与えたかもしれない。[要出典]
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