モランドの怪文書
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 09:29 UTC 版)
「カロン・ド・ボーマルシェ」の記事における「モランドの怪文書」の解説
判決後の興奮から覚めると、ボーマルシェは自身に下された「譴責処分」の重さを実感せざるを得なかった。この判決で言う「譴責処分」とは、現在で言う公民権剥奪に相当する重いものであった。この処分によって公職から追放され、法的にもまともな扱いを受けることはできなくなる。厳しい状況に置かれたボーマルシェに対する、警察長官サルティーヌの助言は有効であった。言動を慎むように忠告し、「国王陛下がこの件に関して、何も書かないようお望みである」ことを伝えたのである。ボーマルシェはこの助言を守るべく、しばらくフランスを離れてイギリスへ渡ることにした。その道中、彼は友人である侍従長ラボルドに国王への執り成しを願うために手紙を送り、この目的は見事に達せられた。ボーマルシェの謹慎を評価した国王は、彼をヴェルサイユ宮殿に呼び戻し、グズマン判事夫妻との闘争で見せた交渉能力を自分が抱えているある問題の解決に利用しようと考えた。 この頃、国王ルイ15世は悩み事を抱えていた。イギリス在住のフランス人テヴノー・ド・モランドに、愛人であるデュ・バリ伯爵夫人の醜聞を種に強請られていたのである。当時、この手のあくどい行為は一種の産業ともいえるほどイギリスで盛んになっており、その書き手はもっぱらフランス人亡命者であった。ほとんど誹謗中傷に近い内容であったが、これらの冊子は金を払って出版をやめさせることが可能であり、書き手もそれが目的であった。モランドは金になりそうな相手を見つけては中傷冊子を発行するという性質の悪い行為を繰り返しており、デュ・バリ夫人に目をつけると、彼女とルイ15世の間柄を暴露する文書を発行すると通知した上で、フランス王室の出方を見極めようとしていたのであった。 ルイ15世も、何も手を打たなかったわけではない。イギリス王にモランドの身柄引き渡しを求めたが、折悪く七年戦争の影響で、フランス-イギリスの二国関係は極めて冷ややかな関係にあったために実現しなかった。イギリス政府からは「モランドを保護する気はないため、フランス側で彼の身柄を秘密裏に抑えるなら黙認する。ただし、国民感情を逆なですることは避けてもらいたい」という返答が帰ってきた。この返答の通りに、ルイ15世はモランドの身柄を抑えるべく警吏をイギリスに派遣したが、この動きがどこからかモランドに伝わり、イギリスの新聞にすっぱ抜かれてしまった。対応に手間取っているうちに、モランドの用意した暴露文書が流通寸前まで来ていた。いよいよ焦った国王は、交渉役としてボーマルシェに白羽の矢を立てたのである。 ボーマルシェは、本名カロン( Caron )のアナグラムであるロナク( Ronac )という偽名を名乗り、王の密命を帯びてロンドンへ向かった。この仕事を成功させれば、国王の感謝と庇護と言う、絶対王政化ではこれ以上ない強力な武器を手に入れることができる。ボーマルシェは、ロンドンに到着すると早速モランドとの交渉に入った。交渉はかなり円滑に首尾よく進んだようで、文書の破棄とこの件に関する完全な沈黙を条件として、2万フランと年金4000フランの提供で合意した。ボーマルシェとモランドはずいぶん気が合ったようで、その後も文通を交わしている。見事に任務を遂行してフランスへ帰国したボーマルシェであったが、運の悪いことに帰国したころには国王ルイ15世の容態が悪化しており、この一大事を前に怪文書事件などはもはやどうでもいい扱いになっていた。そのまま5月10日にルイ15世が亡くなると、その死を純粋に悼む気持ちもあっただろうが、期待していた復権のきっかけを逃したボーマルシェは気を落としたという。
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