モラヴィア宣教
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/15 01:49 UTC 版)
「オフリドのクリメント」の記事における「モラヴィア宣教」の解説
キュリロスとメトディオス兄弟の主要な弟子の一人としてモラビア王国への宣教に共にあたった宣教師。ローマ教皇の管轄下に入るよう要求するフランク人からの圧力に抗して、モラビア王国はコンスタンティノープル総主教庁の管轄の下にスラヴ語典礼(奉神礼)を採用し、キュリロスとメトディオス兄弟とその弟子たちはスラヴ語典礼を使用しつつ、コンスタンティノープル総主教庁の管轄下で宣教を行っていた。当初はローマ教皇もモラビア王国でのスラヴ語典礼を容認していた。当時はまだ東西教会の分裂はしていなかったが、モラビア王国をローマ教皇とコンスタンティノープル総主教のどちらが管轄するかについて対立が生じていた。兄メトディオスの存命中はローマ教皇とコンスタンティノープル総主教との間の調停が成立し、スラヴ語典礼も保たれた。 しかし885年4月6日に兄メトディオスが死去すると、モラヴィア国王スバトプルク1世(Svatopluk I)を補佐するためにローマ教皇から派遣されていたニトラ司教ビヒングはローマ教皇のもとへ行き、教皇ステファヌス5世から兄メトディオスとスラヴ語典礼を非難する文書と、自身をモラビア首都大司教とする命令を得てモラビア王国に戻り、兄メトディオスの弟子たちを弾圧した。弟子たちは捕えられて奴隷にされるか流刑に処された。クリメントもベネチアの奴隷市場に売られたが、東ローマ帝国の駐ベネチア大使によって買い戻され、コンスタンティノープルに送られた。 のちにビヒングはスバトプルク1世により追放されるが、フランク王国の影響が強まったモラビア王国は、やがてローマ教会(のちのカトリック教会)の勢力下に入っていったあと、アジア系民族であるマジャール人に滅ぼされた。
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