モラヴァ派の教会堂建築
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「東欧諸国のビザンティン建築」の記事における「モラヴァ派の教会堂建築」の解説
セルビアのビザンティン建築の第3の段階は、ドゥシャン王の死後、オスマン帝国に滅ぼされるまでの、政治的に不安定な時期である。分裂したセルビア王国は急速に衰退し、ステファン・ラザレヴィチがオスマン帝国に降伏したことで、その属国となった。オスマン帝国は、セルビアに圧力を与えていたが、セルビア北部のモラヴァ川流域は経済的繁栄を続けており、セルビアのビザンティン文化を守っていた。この時期に建立された建築群を、地名を採ってモラヴァ派と呼んでいる。モラヴァ派の主要な特徴は、それまでの建築にない外部装飾の自由さであるが、アトス山にあるヒランダル修道院の三葉形の平面形式と、グラチャニツァ修道院の垂直性の高い立面を組み合わせた造形は保守的で、第2期建築の延長上にある。 ラザル・フレベリャノヴィチの墓所として1375年に建設されたラヴァニツァの修道院付属ヴォズネセーニェ聖堂は、ドームを4本の柱によって支える三葉型平面で、外壁はネセバルにある聖堂群に見られる横縞、市松模様の模様積みのほか、窓に額縁や板石をくり抜いたバラ窓の装飾が施されている。同じくラザルにより1378年に創建された、クルシェヴァツの宮廷礼拝堂(ラザリツァ聖堂)になると、外部装飾はさらに洗練され、ますます華やかなものとなった。しかし、平面はドームを支持する柱こそないものの、ラヴァニツァと同じく三葉型で、セルビアにおけるアトス山修道院の権威の高さを物語っている。王女ミリツァにより、1417年に建設されたカレニチの生神女聖堂(ボゴロディツァ聖堂)はモラヴァ派末期の傑作であるが、モラヴァ派によるこうした装飾の起源はあまりよく分かっていない。 マナシア修道院中央聖堂は、ステファン・ラザレヴィチにより1419年に建立された。この教会堂の平面は三葉型だが、それまでのラシュカ派の教会堂と異なり、教会堂の装飾性はほとんどない。外観は無装飾だが、城塞的な性格はこの教会堂に強い記念性を持たせている。
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