モラヴァ派の教会堂建築とは? わかりやすく解説

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モラヴァ派の教会堂建築

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/12 15:28 UTC 版)

東欧諸国のビザンティン建築」の記事における「モラヴァ派の教会堂建築」の解説

セルビアビザンティン建築第3段階は、ドゥシャン王の死後、オスマン帝国滅ぼされるまでの、政治的に不安定な時期である。分裂したセルビア王国急速に衰退し、ステファン・ラザレヴィチがオスマン帝国降伏したことで、その属国となったオスマン帝国は、セルビア圧力与えていたが、セルビア北部モラヴァ川流域経済的繁栄続けており、セルビアビザンティン文化守っていた。この時期建立され建築群を、地名を採ってモラヴァ派と呼んでいる。モラヴァ派の主要な特徴は、それまで建築にない外部装飾自由さであるが、アトス山にあるヒランダル修道院三葉形の平面形式と、グラチャニツァ修道院の垂直性の高い立面組み合わせた造形保守的で、第2期建築延長上にあるラザル・フレベリャノヴィチ墓所として1375年建設されたラヴァニツァの修道院付属ヴォズネセーニェ聖堂は、ドームを4本のによって支え三葉平面で、外壁ネセバルにある聖堂群見られる横縞市松模様模様積みのほか、窓に額縁板石をくり抜いたバラ窓装飾施されている。同じくラザルにより1378年創建された、クルシェヴァツ宮廷礼拝堂(ラザリツァ聖堂)になると、外部装飾はさらに洗練され、ますます華やかなものとなった。しかし、平面ドーム支持するこそないものの、ラヴァニツァと同じく三葉型で、セルビアにおけるアトス山修道院権威の高さを物語っている。王女ミリツァにより、1417年建設されたカレニチの生神女聖堂(ボゴロディツァ聖堂)はモラヴァ末期傑作であるが、モラヴァ派によるこうした装飾起源はあまりよく分かっていない。 マナシア修道院中央聖堂は、ステファン・ラザレヴィチにより1419年建立された。この教会堂平面三葉型だが、それまでラシュカ派の教会堂異なり教会堂装飾性ほとんどない外観は無装飾だが、城塞的な性格はこの教会堂に強い記念性を持たせている。

※この「モラヴァ派の教会堂建築」の解説は、「東欧諸国のビザンティン建築」の解説の一部です。
「モラヴァ派の教会堂建築」を含む「東欧諸国のビザンティン建築」の記事については、「東欧諸国のビザンティン建築」の概要を参照ください。

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