スラヴ人政権の登場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 07:12 UTC 版)
「スロバキアの歴史」の記事における「スラヴ人政権の登場」の解説
詳細は「en:Principality of Nitra」を参照 670年代に「グリフィンとテンドリル("griffin&tendril")」文化を持った人々がパンノニア平原に現れ(オノグル(英語版)として区別される)、短い間の後にアヴァールはその版図をウィーン盆地の向こうまで拡大することができた。しかし、同時代の考古学上の発見は(例:ブラトニツァ(英語版)の身分の高い人物の精巧な墓)はまた、後に大モラヴィア中核となる領域におけるスラブ人の支配階級の形成を指摘している。南部スロバキアより向こうのアヴァールの優位は、フランク王国のカール大帝がドナウ川北部(のちのニトラ公国の中心)に住むスラブ人の助けによって、アヴァールを破る803年まで続いた。フランク王国はこのときついにスラブ人を取り込むことになった。文書記録に基づいた、ニトラ公国に関する情報は、870年ごろの『バイエルン・カタランニア地誌(Conversio Bagoariorum et Carantanorum )』の2つの記載事項に記録されているのみである。それにもかかわらず、9世紀はじめの10年間は、パンノニア平原の北西部のスラブ人はニトラを拠点とする部族長(後世の歴史家は「ニトラ公」と形式上呼ぶ)の支配下に置かれていた。9世紀には、この都市周辺の居住地の広範囲のネットワークは発展していた。9世紀はじめ、この政権は現在のスロバキアの領土の北西部に位置していた。828年ごろ、大司教のザルツブルクのアダルラムがニトラヴァ(Nitrava)にニトラ公国の君主プリビナ(800-861年)のための教会を奉献した。833年に、モラヴィア公モイミール1世がプリビナを放逐した。プリビナはラトボード(Ratbod)伯の下に行った。伯はカロリング朝フランク王国のオストマルクを統治しており、そこではプリビナは、東フランク王国の宗主権の下の下パンノニア公国とバラトン湖に流れ込むザラ川の近く地に位置するブラトノグラードの首都の統治者になった。プリビナが放逐されていた時期に、少なくとも3つのニトラの城(ポデディム城、チンゴフ城とオストラ・スカラ城)が破壊されたと発掘調査で明らかになっている。
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