スラヴ人侵入とギリシャ化とは? わかりやすく解説

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スラヴ人侵入とギリシャ化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:00 UTC 版)

ギリシャの歴史」の記事における「スラヴ人侵入とギリシャ化」の解説

現代ギリシャ人純血たるギリシャ人の血は流れておらず、彼らはヘレニズム化されスラヴ人に過ぎない19世紀ドイツ人学者、ファルメライヤー バルカン半島5世紀にかけてスラブ人大規模な侵入受けた史料では7世紀から8世紀ギリシャは「スクラヴィニア」(スラブ地域)と呼ばれ10世紀にはコンスタンティノス7世著作物テマについて』には『スラヴ化され野蛮になってしまった』と述べられている。しかし、これをもってギリシャ全域スラヴ化されたわけではなくギリシャにおいてスラヴ系地名テッサリアペロポネソス西部には多く存在するアッティカペロポネソス東部では少ない。また、『モネンパシア年代史』には『ペロポネソス半島東部・・・中略)・・・スラヴ人がいなかった』とあり、アテネテッサロニキはその領域狭めながらも健在であった。そしてこの狭められ領域に住むギリシャ人たちの存在当時国家文字、高度な宗教持たないスラブ人影響を及ぼす条件備えている状態であった。現在、ギリシャにおいて発見されるスラブ系遺物少ないが、これはスラヴ人急速にギリシャ化したことが考えられている。 このことを端的に示しているのがベルブーンドスの事件である。彼はスラブ系民族蜂起企みの廉(かど)で捕縛されたが、ベルブーンドスはギリシャ語話しギリシャ人と同じ服装をしていたため、すぐに脱出できたという。さらに彼が再度捕縛され処刑されたことにより、スラブ民族一部蜂起してテッサロニキ包囲したが、テッサロニキでは友好関係にあったスラヴ民族から食料供給してもらったとされている。 このことからスラブ民族ギリシャ化進んでおり、一部スラヴ人とは友好関係進んでいたと考えられるスラヴ人ギリシャ化キリスト教化が進むのは9世紀以降アラブ人との関係改善国内支配確立などの条件そろってからの話である。 さらにビザンツ帝国アラブ人ウマイヤ朝攻撃により存亡の危機迫り、この対処優先させたため、バルカン半島ギリシャ大部分スラヴ人、特にブルガリアビザンツ帝国への侵入を受け、ヴァルナまで達するなどしてその領域拡大していた。そのため、初期には散発的に遠征行ったが、アラブ人侵入落ち着き見せた頃にギリシャ人植民市形成していくという形を取った。そしてスラヴ人たちを捕虜とした後、アラブ人との戦いに彼らを投入した8世紀以降ブルガリア王国との戦い始まり告げる。その後、『スラヴ人からギリシャ救った皇帝ニケフォロス1世登場しギリシャ大部分回復、さらにギリシャ人植民行いスラヴ人ギリシャ化混血が進むこととなった

※この「スラヴ人侵入とギリシャ化」の解説は、「ギリシャの歴史」の解説の一部です。
「スラヴ人侵入とギリシャ化」を含む「ギリシャの歴史」の記事については、「ギリシャの歴史」の概要を参照ください。

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