スラヴ民族の移動
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「スラヴ民族の北東ルーシへの移動」の記事における「スラヴ民族の移動」の解説
「スラヴ人」および「東スラヴ人」も参照 スラヴ民族の原郷がどこであるかは定説が打ち出されていないが、4 - 5世紀には、スラヴ民族は分散・移動を開始し、そのうちの一派は6 - 7世紀にはイリメニ湖・ヴォルホフ川流域に達した。ルーシ全域のスラヴ民族は、『原初年代記』等の文献的史料や考古学的検証に基づき、いくつかの部族(あるいは部族連合)として分類がなされている。スラヴ民族の移動の速度は、森林を伐採し、農耕地を獲得しながら進んでいく緩慢なものであったが、北東ルーシへ移住してきたスラヴ民族の植民は、多数かつ積極的に行われていたことが確認されている。考古学的調査に基づけば、村集落の跡地は、原則的に、丸太を用いて建造した定住式の多くの家屋と耕地からなっており、また、製鉄場を有し、鉄や非鉄金属などから生活用品や装飾品が作られていた。 北東ルーシへの移住は、いくつかの段階を経ている。移住の第一陣は、9世紀から10世紀にかけて行われた。北東ルーシへの流入経路は、ノヴゴロド方面からの流入と、ヴォルガ川上流域からの流入の二つのルートによるものだった。すなわち、北東ルーシの東と北ではヴォルガ川沿いにクリヴィチ族が進出し始めており、このクリヴィチ族が北東ルーシへ流入し、スーズダリの居住者の基礎的な部族となった。移住のための陸路が拓かれていない場合、河川が主要な通路となった。また、現モスクワ南部や、11世紀にリャザン公国が成立する領域には、主としてヴャチチ族が入植した。ヴャチチ族はリャザン領域を、オカ川下流、またモスクワ川上流へと移住地を広げていった。クリヴィチ族とヴャチチ族の移住地の境界線は、出土するヴィソチノエ・コリツォ(女性用装飾品の一種)の特徴からみて、モスクワ川とクリャージマ川の分水嶺に沿って伸びていた。なおオカ川下流のムーロム地域におけるスラヴ民族の居住地の拡大は、オカ川沿いではなく、ネルリ川、クリャージマ川沿いに進行していることから、主としてクリヴィチ族による進出である。さらに、ラヂミチ族、セヴェリャーネ族の参入も確認できる。 考古学的調査によれば、北東ルーシでは、10世紀後半以降において、都市のみならず村集落の数と規模(その増加は12世紀から13世紀の前半に頂点に達した)に特徴が見出される。すなわち、北東ルーシのスーズダリ地方と、北西ルーシのベロエ湖とシェクスナ川周辺での考古学的調査を比較すると、スーズダリ地方では、約2000人規模の、非常に高密度な居住地が、この期間の大半にわたって出現していた。一方ベロエ湖周辺では、居住地の密度は低く、12 - 13世紀に密度の高まる兆しが見られる。 北東ルーシへの入植の理由は、以下のものである。まず1つは、中世の温暖期にあたるとともに、安定的な農作物の収穫を期したものである。スーズダリのオポリエ地層の花粉の堆積量からみて、9世紀初頭から林木が減少し始めており、12世紀には開墾された土地が主体となっている。他の理由としては、国際交易の発展と、他のルーシ地域で枯渇した毛皮製作用獣皮(ru)の需要の高まりによるものである。村集落跡地からは、ビーバー、リス、イタチなどの毛皮を持つ動物の骨格が発見されているが、そのうちの62%は、切断などの形跡のない完全な形で出土している。また、10世紀末のルーシの洗礼(ru)(キエフ大公国におけるキリスト教の国教化)以降は、キリスト教政権から逃れ、異教(キリスト教から見た)信仰を守ろうとする人々の移住が行われた。 先住民フィン・ウゴル民族との接触に関しては、史料の記述や考古学的検証に基づく限りでは、フィン・ウゴル民族はスラヴ民族に押し出されることなく滞留し、スラヴ民族と同化していったと判断される(仮説として、フィン・ウゴル民族がより東方へと移動したケースが若干存在したのではないかとする説はある)。北東ルーシにおいては、フィン・ウゴル民族の居住地の立地と、その人口の希薄さという条件に因って、武力制圧を伴わない平和的な植民化が行われ、またかなりの速度で、スラヴ的要素が数的にも優位に立ったということができる。ロストフ・スーズダリ地方の最北端の、いくつかの地点での考古学的調査からも、集落遺跡やクルガンの埋葬形態において、フィン系の伝統的な様式が減少していく過程が確認されている。文献史料の面からも、10世紀中盤以降、フィン・ウゴル民族のメリャ族、ムーロマ族、ヴェシ族は年代記上に言及されなくなることから、おそらくスラヴ民族との同化が完了したものと考えられる。
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