アラブ人との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/18 05:31 UTC 版)
「ロデリック (西ゴート王)」の記事における「アラブ人との戦い」の解説
754年の年代記によれば、ロデリックはただちに自分の王位を正当化しようと、アラブ人とベルベル人(Mauri、マウリ)に対抗する軍を召集した。彼らは既にイベリア半島南部に上陸して略奪を行い、ターリク・イブン=ズィヤードやその他イスラム将軍たちは多くの町を破壊していた。のちアラブ側の文献では、ウマイヤ朝のヒスパニア征服は、イフリーキーヤ総督(wālī)ムーサー・イブン・ヌサイルの命令で実行された特異な出来事だとした。9世紀の歴史家バラーズリーによると、ムーサー・イブン・ヌサイル麾下の将軍(アミール)であったターリク・イブン=ズィヤードのもとに西ゴート側のアンダルス海峡(ジブラルタル海峡)を守護していた総督(wālī)ウルユーン(フリアン)が訪れた。彼らは協定を結び、ターリクは自軍とともにウルヤーンが用意した船舶に乗り込んで海峡を渡り、イベリア半島側に上陸したという。ターリクの軍は渡海後早々に敵軍の迎撃をうけたが、これを破って当地を制圧した。これらの出来事はヒジュラ暦92年(711年)のことであった。ターリクとその軍は、アル=アンダルス(al-Andalus)、つまりイベリア半島に最初に侵入したムスリムであったという。しかし、これはイフリーキーヤ総督ムーサーに協議も事前通告もなく行われたものであったため、ムーサーはこの情報を受けるとターリクに書簡を送って、未知の地域に遠征してムスリム軍を危険に曝した事、遠征への誘惑に負けて許可も無く勝手な行動に出たことなどを激しく叱責した。加えてターリクにコルドバ以遠への進軍を禁じさせ、今度はムーサー自身が海峡を渡って半島へ上陸するとコルドバまで進撃してターリクと合流した。ターリクはムーサーと会見して陳謝したので、ムーサーはターリクを赦したという。その後、ターリクは西ゴート王国(mamlaka al-Andalus)の首都トレドを攻撃した。ターリクは豪華な食卓を当市で獲得し、上官のイフリーキーヤ総督ムーサーはダマスクスに帰還した際にカリフ・ワリードに献呈した、と伝えている。これらの実際の出来事の日付が非常に近かったことでアラブ人たちは無秩序な略奪を始め、ロデリックの偶発的な死と西ゴート貴族の崩壊が重なって半島征服を成し遂げただけである。パウルス・ディアコヌスのHistoria Langobardorumでは、セプテム(現在のセウタ)からやってきたサラセン人たちがヒスパニア全土を占領したと記録している。 712年の戦いのさなかロデリックが自軍に見捨てられ殺害される以前に、彼は侵略者に対する遠征を幾度か行っている。754年の年代記作者は、ロデリックの最後の遠征に同行していた一部の貴族が、王国への野望のため手を下したと主張している。おそらく、彼らのうち一人が王位を勝ち取れるよう、戦いの最中にロデリックが命を落とすようしむけたのである。彼らの意図がどうであったにしろ、彼らの大半はロデリックと同様に戦死した。別の歴史家たちは、兵士たちの士気が低かったことをほのめかしている。なぜならロデリックの波乱含みの王位継承が敗北の原因だったからである。ロデリックの兵士たちの大多数が、大した訓練も受けておらず、不本意に徴兵されてきた奴隷であった。ゴート族のために戦う自由民(ヒスパノ=ローマ人で占められていた)はわずかであったとされる。 戦いの場所は不確かである。グアダレーテ河畔の戦いという名前ゆえに、おそらくグアダレーテ川河口近くで起きたとされる。ロデリックの最期は不明である。戦闘中に行方不明となったか、戦死したのであるが、河の近くで矢を射られたロデリックの馬が見つかったという情報が唯一のものである。 754年の年代記によると、アラブ人は711年にトレドを獲得し、市内にとどまっていた多くの貴族たちを処刑した。彼らがエギカの息子オッパスの逃亡を手助けしたからである。同じ年代記によれば、ロデリックの死後にこの出来事が起こっているので、西ゴートの敗北は711年にさかのぼるかトレド征服の712年に変える必要がある。コリンズは712年を西ゴート滅亡の年としている。トレドを脱出した前王の息子がオッパスであったとすれば、年代記に記された当時のヒスパニアを苛んでいた内部の鬱憤の原因であったかもりれない。ロデリックの決定的な敗北以前か、またはロデリックの死とアラブによるトレド陥落までの期間に、ロデリックとアギラ2世に敵対する勢力によってトレドでオッパスは王位継承を宣言していた。もしそうなら、王国への野心を持っていた貴族たちの死は、南部での戦いの直後にアラブ人によってトレドで殺害された、オッパスの支持者であったためからかもしれない。 寡婦となったロデリックの王妃エギロナは、後にイフリーキーヤ総督ムーサー・イブン・ヌサイルの息子でアラブ人のヒスパニア知事の一人アブド・アル=アズィーズ・イブン・ムーサーと再婚した。
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