アラブ世界に対するヒトラーの見方
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 15:38 UTC 版)
「ナチス・アラブ関係」の記事における「アラブ世界に対するヒトラーの見方」の解説
このやりとりは、サウジアラビアの統治者イブン・サウードの特使ハリド・アル=ハッド・アル=ガーガニと、ヒトラーが面会した時に起こった。この会合の早い段階でヒトラーは、なぜナチス・ドイツがアラブ人に暖かい共感を持っているかについて、三つの理由のうち一つを述べた。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}... 我々が連帯してユダヤ民族と戦っていたことが理由である。これが元になって彼〔ハリド・アル=ハッド〕はパレスチナとその状況について論じ、そして彼自身、全てのユダヤ民族がドイツを去るまで休みはしないと述べた。ハリド・アル=ハッドは預言者ムハンマドが ... 同様の行いをしたことに注目した。彼はアラブからユダヤ民族を駆逐したのだ ... 。 ジルベール・アシュカルの苦笑交じりの論評によると、その会談でヒトラーがアラブからの訪問者に対し、指摘しなかったことがある。ヒトラー総統はそれまでドイツ系ユダヤ人に対し、パレスチナへ移住するよう扇動していたのだ。第三帝国〔ナチス・ドイツ〕が積極的に支援した対象は、複数のシオニズム組織であり、イギリスからユダヤ系移民へ課せられた制限を、それら組織が出し抜くことだった。 ヒトラーは第二次世界大戦が始まる直前の1939年、軍の指揮官たちへ次のように伝えた。 我々は極東とアラビアで動乱を作り続けるとしよう。我々は人間として考えよう。そして、こういった極東人やアラビア人を見てみるとしよう。彼らは良くてもせいぜい外見を取りつくろった類人猿であり、熱心にムチ打ちを経験したがっているのである。 第二次世界大戦より以前は、全て北アフリカと中東はヨーロッパ列強諸国の支配下にあった。アラブ人を劣悪なセム系人種の一員とみなすナチ人種説〔アーリア神話〕にもかかわらず、個人としてのアラブ人たちは、名誉と敬意をもって取り扱われた。このアラブ人たちは、中東を占領しているイギリスと戦うために第三帝国〔ナチス・ドイツ〕を助けたのであった。例えばハーッジ・ムハンマド・アミーン・アル=フサイニーは、ヒトラーや第三帝国と緊密に協力したことで、ナチスから「名誉アーリア人」の地位を授与された。 ナチス・ドイツ政府は誠実な結社を発展させ、一部のアラブ国家主義〔アラブ民族主義〕指導者たちと協同した。その土台にあったのは彼らが共有している、反植民地主義的・反シオニズム的利益だった。こうした共通大義のための戦いの中で、最も著名な例の一つは1936年~1939年のパレスチナ・アラブ反乱等の戦闘であり、これはイスラームの大指導者〔大ムフティー〕であるハーッジ・ムハンマド・アミーン・アル=フサイニーによって先導されていた。もう一つはイギリス・イラク戦争であり、ゴールデンスクエア〔Golden Square 黄金方陣〕 ―― ラシード・アリー・アッ=ゲイラニによって率いられた四人の将軍たち ―― が、親イギリス派のアブドゥル=イラーフ摂政政権をイラクで転覆し、親枢軸国派〔pro-Axis〕の政府を設置した。 ヒトラーはラシード・アリー・アッ=ゲイラニのクーデターに応じて、彼らの大義を支持する「総統命令30号」を1941年5月23日に発布した。この命令の始まりには「中東のアラブ解放運動は、イギリスに対する我々の自然な同盟者である」とあった。 航空兵大将ヘルムート・フェルミーは、いわゆるこの「総統命令30号」に従い、「ドイツ国防軍に関連するアラブ案件」の全てに関する中枢権力〔中央当局〕へと任命された。ドイツとアラブの国家主義者〔民族主義者〕たちにとっての戦略的共通利益について、大将フェルミーは軍事見解をこう要約した。 既に緊迫していた中東の状況は、ユダヤ系の国家主義〔民族主義〕的大望の出現によって、さらに複雑化した。ユダヤ民族に対するアラブ的憎悪があり、そして、アラブ独立の希望が潰えたことに対する失望があり、それらは血生臭い暴動に繋がった。一連の暴動は、最初は自然に純粋な反ユダヤ系であり、急増しつつあるパレスチナへのユダヤ民族移住に対抗していたが、後には大英帝国をユダヤ系委任統治国と見なして標的にした。 この状況が不満を抱えたまま続いたのは第二次世界大戦の発生時期に至るまで、つまりヨーロッパの危機が影を投げかけた時までだった。 イギリスがドイツに宣戦布告した時、パレスチナへのユダヤ系移民流入を積極的に支持してきたシオニスト組織は、即座にドイツに対する英国との連帯を宣言した。 1941年6月11日、ヒトラーと最高軍司令官は次のような総統命令32号を発行した。 アラブ解放運動の搾取。ドイツの主要な作戦の催しの中で、イギリスの援軍が適切なタイミングで市民の騒乱や反乱に束縛されれば、中東におけるイギリスの現状はより不安定と化すだろう。この結末に向けてあらゆる軍事的・政治的・プロパガンダ的な手法は、準備期間中に緊密に調整されなければならない。外国の中心的機関としてアラブ地域の全ての計画と行動に参加する、特別幕僚F〔Special Staff F〕を私は指名する。その本部は南東軍兵士地区に置かれる。本部には、最優かつ対応可能な専門家〔エキスパート〕および代行者〔エージェント〕が用意される。軍司令官長は、政治的質問を含めた外務大臣との合意によって、特別幕僚Fの職務を特任する。 一部アラブ人との軍事同盟に携わっていたドイツ国防軍砲兵大将ヴァルター・ヴァルリモントの報告では、多くのドイツ将校が次のように信じていた。 ... アラブ諸国間における唯一の真の政治的結集点とは、共通してユダヤ民族を憎んでいることだった。一方で「アラブ国家主義運動〔アラブ民族主義運動〕」等といった事柄は、様々なアラブ諸国の利害不一致が原因で、紙の上にしか存在しなかった。
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