アラブ人とスワヒリ人の連合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/09 00:32 UTC 版)
「マラウイの歴史」の記事における「アラブ人とスワヒリ人の連合」の解説
ヤオ族(或はチェワ人)との強いパートナーシップを背景として、アラブ人の貿易商はマラウイ湖の沿岸地域に何箇所かの交易所を設立した。これらのうち最大のものは1840年にアラブ人貿易商のジュンベ(スワヒリ語で首長、Jumbe, Salim Bin Abdalla )によりコタコタに建設されたものである。ジュンベは、毎年5000人から20000人の奴隷をコタコタへ集め、コタコタからはキャラバンを組んで一度に500人程度の奴隷を輸送し、現在のタンザニアのリンディ州キルワ県の海岸沖にあるキルワ島へ一度運び込んだ。この効率的な奴隷集めの手法が確立したことで、奴隷貿易の主体はモザンビークのポルトガル人からザンジバルのアラブ人へと移っていった。 ヤオ族とンゴニ族は互いに幾度も争いを繰り返したものの、いずれの民族も決定的な勝利を収めることは出来なかった。マラビ帝国に住むその他の民族は、そのほとんどが両民族からの攻撃により壊滅した。マラビ族の首長のうちの幾人かは、アラブの奴隷商人と同盟を結んだスワヒリ人同士で同盟を結び、自らの部族の身を守った。
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