アラブ人との外交
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 06:25 UTC 版)
前671年のエサルハドンのエジプト遠征において、シナイ半島のアラブ人部族の支援は重要であった。エサルハドンはまた、センナケリブによって平定されていたアラビア半島のアラブ人部族、特にアドゥンマトゥ(英語版)市周辺の部族の忠誠を確保し続けることを決めていた。アドゥンマトゥの王ハザエル(英語版)は、かつてセンナケリブが奪い取っていたハザエルの神々の像を返還することと引き換えにエサルハドンに貢納を収め、複数の親族をその下に送っていた。ハザエルが死亡し、彼の息子ヤウタ(Yauta)が即位した時、ヤウタの王としての地位はエサルハドンによって承認されており、エサルハドンはこの新王の統治に対する反乱を退けてヤウタを助けた。だが、その後間もなく、ヤウタはエサルハドンに対して反旗を翻した。この反乱はアッシリア軍に防がれて失敗したが、ヤウタはアッシュルバニパルの治世まで独立を維持することに成功した。 エサルハドンはまた「アラブの女王」としてタブア(英語版)という女性をアッシリアの王宮で即位させ、故郷に戻って彼女の臣民を統治することを許可した。別のエピソードとして、エサルハドンはヤディ(Yadi)と呼ばれる都市の王に助けを求められた後、前676年に「バッザ(Bazza)」の国に侵攻した(アラビア半島の東部に存在したと想定されている)。この遠征ではアッシリア軍はこの地域の8人の王を破り、征服地をヤディの王に与えた。
※この「アラブ人との外交」の解説は、「エサルハドン」の解説の一部です。
「アラブ人との外交」を含む「エサルハドン」の記事については、「エサルハドン」の概要を参照ください。
- アラブ人との外交のページへのリンク