アラブ人艦隊の出現
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/11 01:13 UTC 版)
「ビザンツ帝国海軍」の記事における「アラブ人艦隊の出現」の解説
640年代、正統カリフ政権によりシリア・エジプトが制圧され、ビザンツ帝国は『アラブ人』という新たな脅威に直面することになった。アラブ人はこの時、ただ単に新規兵員や税収の重要な供給源であるシリア・エジプト地域を強奪しただけでなかった。644年、一時的にビザンツ帝国に奪還されていたアレクサンドリアにてビザンツ帝国艦隊の有用性を見せつけられたアラブ人は、その後自前のアラブ艦隊を持つようになった。アラブ人の艦隊建造の試みにおいて、アラビア半島北部より進出してきたアラブ人権力者たちは資源・人員共にレパントに依存するようになった(その大半はコプト人であったという。)。しかしながら、パレスチナ地域に点在したアラブ艦隊の諸基地にはイラクやペルシア地方出身の船大工も雇用されていた証拠も残っている。14世紀以前の詳細な記録が残っていないがために、アラブ艦隊を構成する艦船がどのようなものだったのかよく分かっていない。だが、アラブ人らの艦隊建造の試みは、当時の地中海世界における伝統に則って行われたと考えられている。アラブ人はビザンツ帝国における船舶系の用語をそのまま用いていたり、数世紀にわたり両国は交流していたため、ビザンツ艦隊とアラブ艦隊は多くの類似点を有していた。これらの類似点は、戦術や艦隊組織の構成などにも見受けられている。 649年、発足したてのアラブ艦隊はキプロスを攻めクレタ島・シチリア島を襲撃した。そして655年にはビザンツ皇帝コンスタンス2世が率いるビザンツ艦隊とリキュア沖で衝突し、それを撃ち破った。リキュアでのビザンツ艦隊の大敗により、アラブ人勢力は地中海支配の機会を手にすることになり、その後数世紀にわたり、ビザンツ帝国とアラブ人は地中海での制海権を巡って争うことになった。ウマイヤ朝初代カリフ・ムアーウィアの治世になると、アラブ人の襲撃はより激しいものになった。というのも、ウマイヤ朝はビザンツ帝国の首都コンスタンティノープル自身を攻める計画を立てていたからだ。数年間続いたコンスタンティノープル包囲戦において、ビザンツ艦隊は帝国の存亡に欠かせない存在であることが証明された。この包囲戦は結果的にはビザンツ側の勝利で終わったのだが、それはビザンツ艦隊が新たに開発・装備した焼夷武器ギリシア火薬のおかげであったからだ。ウマイヤ朝の艦隊はギリシア火薬により大半が焼き尽くされ、アラブ人による小アジア・エーゲ海遠征は一時中断された。そしてそれから間も無く、帝国とウマイヤ朝は30年間の休戦条約を結んだ。 680年代、皇帝ユスティニアノス2世は艦隊の更なる必要性を感じ、帝国南部の国境地域に移住してきたMardaitesと呼ばれるキリスト教徒の一派、約18,500人を海兵・漕ぎ手として海軍に雇い入れた。しかしながら、ウマイヤ朝は更なる西進を推し進め、680年代から690年代にかけて、ビザンツ帝国領北アフリカに侵攻した。(←詳細はムスリムのマグリブ侵攻(英語版)を参照。)帝国はウマイヤ朝の北アフリカ侵攻を押しとどめるべく艦隊をカルタゴに派遣したものの、698年、帝国の拠点カルタゴが陥落し、北アフリカはムスリムの手に落ちた。ウマイヤ朝カリフから北アフリカ総督に任命されたMusa ibn Nusayrはチュニスに新たな都市・海軍基地を建築し、コプト教徒の船大工1000人に新たなウマイヤ艦隊を建造させた。この艦隊をもってして、ウマイヤ朝は、ビザンツ帝国の西地中海支配を打破しようと企んだ。。そして、ウマイヤ艦隊は8世紀初頭より、シチリア島などのビザンツ帝国領西部地域を絶え間なく襲撃した。それに加え、上記のウマイヤ艦隊のおかげでウマイヤ朝はマグリブを完全に征服することに成功し、さらにはイベリア半島の大半をムスリムの勢力下に置くことにも成功した(←詳細はムスリムのヒスパニア征服(英語版)まで)。
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