スラヴ人とビザンツ・東ヨーロッパ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 09:29 UTC 版)
「古代末期のキリスト教」の記事における「スラヴ人とビザンツ・東ヨーロッパ」の解説
ゲルマン人(ゴート人)の大移動のさなかにスラヴ人も移動をはじめたとみられ、フン族がパンノニアに去るとスラヴは黒海に南下して定住した。 スラヴ人はフンの残存勢力やブルガール族とともにドナウ川を超えてビザンツ領内に攻撃をしかけるようになった。スラヴ人のビザンツ侵入は510年代からはじまり、ユスティニアヌス大帝時代には本格化した。 また、5世紀半ばにはモンゴル系のアヴァール人がカスピ海にいたり、スラヴ人を支配下においた。580年代にはアヴァール人はスラヴ人をともなってビザンツを攻撃し、626年にはブルガール、ゲルマン系のゲピト族を従えて、コンスタンティノープルを包囲したが、ビザンツは持ちこたえた。アヴァール人とスラヴ人は東アルプス方面や、ギリシャ、フランク王国などにも侵入した。 モラビアでは623年に、フランク人と推測される商人サモがアヴァール人へのスラブ人の反乱を指導して、スラブ人最初の国家であるサモ国を建国したが、659年にアヴァールに滅ぼされた。 ドナウ川下流域のブルガール人は5世紀末からビザンツを攻撃し、540年にはブルガールのクトリグル族がイリリクムの32の要塞を破壊して10万人を連れ去った。559年にはコンスタンティノープルを包囲した。 626年頃には、皇帝ヘラクレイオスがアヴァール人を攻撃するために、白クロアチア(現在のウクライナ南西部のガリチアから、ポーランド南部のシロンスク、東ボヘミアにかけての地域)から南スラヴ人のクロアチア人がイリリクムに招かれ、その後白セルビア(カルパティア山脈北部から西南ドイツのザクセン地方にかけての地域)にいたセルビア人も帝国の保護を求めて、バルカン半島にやってきた。 680年にはオングロスの戦いで東ローマ軍がアスパルフ率いるブルガール人に破れ、帝国領内のブルガール定住を認めざるをえなくなり、ビザンツ帝国はドナウ川より南の支配権を手放すこととなった。681年にブルガール族はブルガリアを建国するが、次第にスラヴに同化されていった。その後もブルガリアとの戦争のために、東ローマ帝国の領土はアナトリア半島とバルカン半島沿岸部、南イタリアマグナ・グラエキアに縮小した。こうして7世紀にはバルカン半島はスラヴ人によって支配され、ビザンツ帝国の支配が及ばなかった。 8世紀半ばになって、コンスタンティヌス5世がスラヴ人・ブルガリア人への遠征を開始して、巻き返しをはかり、ニケフォロス1世はスラヴ世界に植民し、バルカン半島の再征服が進んだ。しかし、811年のブルガリア征伐でニケフォロスは戦死した。
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