スラヴャンスクの失陥
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 05:33 UTC 版)
「イゴール・ガーキン」の記事における「スラヴャンスクの失陥」の解説
7月4〜5日の夜、6月30日からの10日間の停戦が終了した後、ウクライナ軍による大規模な攻撃が行われた。ガーキンと民兵はスラヴャンスクから撤退し、ウクライナ軍はスラヴャンスクを奪取した。これによって、4月6日からの分離主義者によるスラヴャンスクの占領は終了した。 これより少し前、ガーキンが「ノヴォロシア(「新しいロシア」、分離主義者の間で特に広く呼ばれる南東ウクライナの歴史的名称)」のためにロシアからの軍事援助を必死に訴え、「スラヴャンスクが他の地域よりも早く落ちる」と述べたビデオがYouTubeに投稿された。他の反乱勢力の指揮官たちはガーキンの民兵が崩壊寸前にあるという評価を否定した。反乱勢力の一人である、自称「ドネツク州の人民知事」のパベル・グバレフは、ガーキンを19世紀のロシア将軍ミハイル・クトゥーゾフに例え、「クトゥーゾフ」と「ガーキン」は「決定的な勝利を収められる戦いのときだけ出発する」と述べた。(クトゥーゾフはナポレオンのロシア遠征において、戦略的撤退によって最終的にナポレオンを敗北させた)。 しかしながら、ガーキンの撤退はロシア国家主義者のセルゲイ・クルギニャンとロシアの超国家主義者たちから強く批判された。ロシアの超国家主義者サークルは、ロシアの強力な「灰色の枢機卿」と呼ばれるウラジスラフ・スルコフが東ウクライナのオリガルヒであるリナト・アフメトフと共謀して、「ガーキン」とユーラシア主義の思想家であるアレクサンドル・ドゥーギンに反対する運動を組織したと主張した。クルギニャンは、スラヴャンスクの撤退と、ガーキンがスラヴャンスクで死ぬ誓いを守っていないことを非難した。クルギニャンは、スロビアンスクの撤退は戦争犯罪であり、ガーキンがその責任を負うべきであると考えている。 ドネツク人民共和国の保安相アレクサンダー・ホダコフスキー(ウクライナ保安庁のアルファ部隊の元亡命者、ヴォストーク大隊の元指揮官)もまた、その撤退に抗議した。 ソーシャルネットワークで、ガーキンは、「臨時政府軍」が新しく動員されたウクライナ兵をブルドーザーで脅し、ウクライナ国家親衛隊が平和な市民とガーキンの兵士たちを処刑し、またウクライナが野戦砲と多連装ロケット発射機の陣地を地元のジャガイモ畑に構築して、畑を破壊していると主張した。
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