白セルビアとは? わかりやすく解説

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白セルビア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/28 07:54 UTC 版)

セルビア公爵デルヴァンが支配していた地域

白セルビア(しろセルビア、セルビア語: Бела Србија)は、ソルブ人の一部族である白セルビア人が居住していたとされる地域である。この地域はボイキセルビア語: Βοΐκι)とも呼ばれる。

初期のスラヴ人のうち、最も西方にいたヴェンド人は、現代のセルビアに居住するセルビア人たちの祖先とされる。

白セルビアの場所

東ローマ帝国皇帝コンスタンティノス7世(在位:913-959年)は、自著『帝国統治論』で「クロアチア人は皇帝ヘラクレイオスのもとに難民として逃れ、その後、セルビア人も同じ皇帝のもとに難民として逃れていった」と述べている。

さらに、「セルビア人は、洗礼を受けていない『白い』人々の子孫であることを我々は知っておくべきである。彼らはハンガリーの向こう側、いわば彼らが『ボイキ』と呼ぶ地域に住んでいる。その隣にはフランシアがあり、この地に住むクロアチア人たちもまた洗礼を受けていない『白い』人々だ。この場所にもかつてセルビア人が住んでいたのである」、「二人の兄弟が彼らの父のあとを継いでセルビアを統治するようになった後、一方が住民の半分を連れて、皇帝ヘラクレイオスのもとに亡命した。皇帝ヘラクレイオスは彼らにギリシアの土地の一部を与え、この地は彼らにちなんで『セルブリア』の名で呼ばれるようになった」、「しばらくして、セルビア人たちは故郷を旅立ち、行く先々で占領を繰り返しながらドナウ川を渡った。このとき、彼らは皇帝ヘラクレイオスに要請し、皇帝は自分の領地にセルビア人たちを定住させた」と述べている。

10世紀初頭に書かれたラテン語の文献には「ハンガリー人たちはセルビアからパンノニアに移住した」と記されており、ティボル・ジヴコヴィッチは「この地こそがボイキ(ボヘミア)を指しているのではないか」と示唆している[1]

白セルビアに対する見解

フランシス・ドヴォルニクの研究をもとにして作成された560年ごろの白セルビアの位置。

白セルビアの場所については見解が分かれているが、一般的にはボヘミアとザクセン地方付近であったとされている[2][3][4][5][6][7]19世紀以降、最も有力なのはボヘミアという説と、カルパティア山脈の東ガリツィアにあるボイコス人の土地という説であった。後者を支持する学者たちは、ボイキとボヘミアを関連づけずに、ルーシ系の民族集団であるボイコス人の民族名に関連づけたのである[8][9]

考古学者V・V・セドフによると、『帝国統治論』ではソルブ人の居住地は下ラウジッツ地方に位置していたとされている[10]一方で、その後に続くザクルミアに関する記述が混乱を招き、複数の仮説を生むこととなった[11]エルベ川ザーレ川の間とする説、ヴィスワ川オーデル川の上流とする説、エルベ川およびザーレ川からヴィスワ川の上流にかけて存在していたとする説がある[11]。しかし、セドフによれば、考古学的な調査からはどの仮説も裏づけられないとし、ルボル・ニーデルレが主張した「白セルビアが存在した証拠はなく、コンスタンティノス7世は大クロアチアとの類似性に基づいて構成した可能性が高い」とする見解を支持した[11]が、その一方で大クロアチアさえ存在しなかったとする学者も多い[12][13]

地名と民族名

タデウシュ・レヴィツキは、ポーランドの地名学研究において、12世紀から14世紀にかけて記録された「Serb-」および「Sarb-」という語源を持つ地名を複数発見し、それらを白セルビア人の痕跡および残存集団と定義した。13世紀15世紀以降には、この民族名に由来する可能性のある人名や姓も記録されている。しかし、ハンナ・ポポフスカ=タボルスカによれば、この調査方法ではセルビア民族名の語源解釈が考慮されておらず、地名の大部分は民族名自体に由来していない可能性が高いとしている。

また、ウォフミャンスキとポポフスカ=タボルスカは、「Serb-」および「Sarb-」を語根に持つ地名の数が異様に多いと考えたが、これは中世初期のスラヴ人の大移動を反映したものではなく、むしろピャスト朝によって捕虜としてエルベ川から連れられてポーランド領土に住みついたソルブ人の人口を反映したものであるとしている[14][15]

脚注

  1. ^ Živković 2012, p. 153.
  2. ^ Mykhailo Hrushevsky Marta Skorupsky訳 (1997) [1898]. Andrzej Poppe; Frank E. Sysyn; Uliana M. Pasiczny. eds. History of Ukraine-Rus'. Volume 1: From Prehistory to the Eleventh Century. Canadian Institute of Ukrainian Studies Press. pp. 161–162. ISBN 978-1-895571-19-6. https://books.google.com/books?id=L_ENAQAAMAAJ. "The second detail in Constantine's account, which supposedly points to the eastern Carpathians, is his reference to a 'place called Boiki (Boiki)' on the border with the White Serbs; for a long time this was considered — and some consider it still – to be a reference to the Ukrainian Boikos. That is very unlikely, however, because the location is too far east for the Serbs, nor is there any indication that the name of the Boikos was ever in such wide usage. So all we are left with to suggest the existence of a Rus' Croatia in the Carpathians is the Primary Chronicle ... Published by H. Jireiek, the Karten zur Geschichte (1897) also show the 'Boiki' on the Dnister (map 4). It is more likely that Boiki is a distorted variant of the name Boiohem, or Bohemia, as most scholars now believe..." 
  3. ^ Dvornik 1962, p. 130–131.
  4. ^ Andreas Nikolaou Stratos (1968). Byzantium in the seventh century. Adolf M. Hakkert. p. 326. ISBN 9789025607487. https://books.google.com/books?id=y4MJAQAAIAAJ. "These, he says, descended from the unbaptised Serbs who were also called "white" and lived in a place called by them "Boiki" (Bohemia)..." 
  5. ^ Acta archaeologica Carpathica. Państwowe Wydawn. Naukowe. (1999). p. 163. https://books.google.com/books?id=IhQQAQAAMAAJ. "Wielu spośród nich osiedlili królowie węgierscy u zachodnich granic swego królestwa; morze Ciemne = Bałtyk; Boiki = Bohemia, czyli Czechy..." 
  6. ^ Slavia antiqua. 44. Poznań Society of Friends of Learning. (2003). p. 13. https://books.google.com/books?id=Y7FmAAAAMAAJ. "Serbów balkañskich znajdowala siç w kraju zwanym u nich Boiki (Bohemia=Czechy)..." 
  7. ^ Овчинніков, Олександр (2000). “Східні хорвати на карті Європи [Eastern Croats on the map of Europe]” (ウクライナ語). Археологічні студії [Archaeological studies]. 1. Kyiv, Chernivtsi: Видавництво "Прут"; Chernivtsi University. pp. 152–153. ISBN 966-560-003-6. https://chtyvo.org.ua/authors/Ovchynnikov_Oleksandr/Skhidni_khorvaty_na_karti_Yevropy/ 
  8. ^ Howorth, H. H. (1878). “The Spread of the Slaves. Part I. The Croats.”. The Journal of the Anthropological Institute of Great Britain and Ireland 7: 326. doi:10.2307/2841009. JSTOR 2841009. https://zenodo.org/record/2182681. 
  9. ^ Howorth, H. H. (7 December 1880). “The Spread of the Slaves. Part III. The Northern Serbs or Sorabians and the Obodriti.”. The Journal of the Anthropological Institute of Great Britain and Ireland 9: 181–232. doi:10.2307/2841974. JSTOR 2841974. 
  10. ^ Sedov 2013, p. 458.
  11. ^ a b c Sedov 2013, p. 459.
  12. ^ Sedov 2013, p. 451.
  13. ^ Majorov 2012, p. 21, 58.
  14. ^ Łowmiański, Henryk Kryżan-Stanojević訳 (2004) [1964]. Nosić, Milan. ed (クロアチア語). Hrvatska pradomovina (Chorwacja Nadwiślańska in Początki Polski) [Croatian ancient homeland]. Maveda. pp. 104–105. OCLC 831099194 
  15. ^ Popowska-Taborska, Hanna (1993). “Ślady etnonimów słowiańskich z elementem obcym w nazewnictwie polskim” (ポーランド語). Acta Universitatis Lodziensis. Folia Linguistica 27: 225–230. doi:10.18778/0208-6077.27.29. hdl:11089/16320. http://yadda.icm.edu.pl/yadda/element/bwmeta1.element.hdl_11089_16320 2020年8月16日閲覧。. 

参考文献

関連項目




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