中世・オスマン支配
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/10 07:50 UTC 版)
中世スラヴ人がやって来るようになり、白セルビアからのセルビア人もやって来た。1180年辺りから、ストラツィミール(Župan Stracimir)の支配下であったウジツェからラシュカにかけてをステファン・ネマニャ(Grand Župan Stefan Nemanja)が併合した。ステファン・ドラグティンが弟のステファン・ウロシュ2世ミルティンに王位を譲った際、ウジツェ地域の支配権は保持し、ハンガリー王からマチュヴァ(Mačva)地域を得て、スレム王国を形成した。ドラグティン王が死去した時、彼の領地はセルビア王国に併合されている。皇帝ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンの死後、ウジツェはヴォイスラヴ・ヴォイノヴィッチ (en) の支配下に入るが、ニコラ・アルトマノヴィッチ (en) の強力な力によって倒される。ラザル・フレベリャノヴィチとボスニア王国のトヴルトコ1世 (en) は共闘し、ニコラ・アルトマノヴィッチを倒し領地を二分割しウジツェはラザルの支配下となった。 1463年、旧市街の中世ウジツェ砦はオスマン帝国の手に落ち、第一次セルビア人蜂起 (en) が起こりセルビア人軍事組織によって解放される1807年までベオグラード・パシャルクの一部であった。地域や地区の行政的な中心地である他、多くの商人や手工業者を集めていた。工業都市として開発されるようになったのはほんの19世紀末のことで、小規模な毛布や手織りのフェルトなどの製造工場がウジツェで1868年に操業を開始し、1880年に製革工場が設立された。ウジツェはセルビアでは初のニコラ・テスラの原理による水力発電が用いられた町で、1900年にジェティニャ川に造られた。
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