ルイの失敗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/19 08:26 UTC 版)
ウィリアムは、徐々にルイの陣営から諸侯のほとんどを寝返らせ、ルイを攻撃させることに成功した。両陣営は約1年の戦争を継続した。1216年、ルイはハートフォード城を攻略したが、防衛に当たった騎士に対して馬と武具を持って立ち去ることを許した。12月下旬にバーカムステッド城を攻略したさいにも、国王派駐屯軍の名誉を重んじて、馬と武具を備えた上での撤退を許諾している。1217年の初めまで、ルイは再軍備のためにフランスに帰還するつもりであったが、南海岸に向かう途中でケント、サセックスで国王派との交戦を強いられた。南サセックスのルイスでは待ち伏せにあい兵力の一部を失ってしまい、残存兵力だけでウィンチェルシーに向かうもフランス艦隊の到着によって飢餓から救われることになった。 ドーバーでの休戦が結ばれると、ドーバー要塞は繰り返しルイがフランスとの連絡を取ることを妨害し、そのためにルイは第二の包囲攻撃をしようとドーバーに戻るために出航した。フランス軍の野営地は、ドーバー城のそとに作られた。これはウィリアム・カッシンガムの艦隊による増援が到着したさいの包囲軍が攻撃および火計を受ける可能性があること想定してのことであった。そしてルイはサンドウィッチに上陸することを強いられ、ドーバーまで陸路を進軍しなければならなかった。ルイは、1217年5月12日、本格的に第二次ドーバー包囲を開始した。だが、この包囲攻撃はウィリアム・マーシャル (初代ペンブルック伯)およびファルケ・ド・ブレントの攻撃と、1217年5月15日に親ルイ派の諸侯が大敗北を喫したリンカーン城での戦い(のちに第二次リンカーンの戦い、として知られるようになる)により、ルイ軍側の失敗に終わった。 ウィリアム・マーシャルは、次なるロンドンでの包囲戦についても準備をしていた。しかし、ルイはこのときドーバーでの戦い、ドーバー海峡におけるサンドイッチの戦いにおいてさらなる敗戦を喫したことに苦しんでいた。このときウィリアムの同盟者として戦ったドーバーのコンスタブルはヒューバート・ド・バーである。ユータス・ザ・モンク(en:Eustace the Monk)が率いるルイの新たな増援部隊は、すでに壊滅し、ルイはこれ以上の戦いを続けることができない状況にあった。
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