亡命時代
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「リヒャルト・ワーグナー」の記事における「亡命時代」の解説
1849年、ドレスデンで起こったドイツ三月革命の革命運動に参加。当地に来ていたロシアの革命家のバクーニンと交流する。しかし運動は失敗したため全国で指名手配され、フランツ・リストを頼りスイスへ逃れ、チューリッヒで1858年までの9年間の亡命生活をおくり、この亡命中にも数々の作品を生み出す。 亡命先のチューリッヒでワーグナーは『芸術と革命』(1849)を著作し、古代ギリシャ悲劇を理想としたが、アテネも利己的な方向に共同体精神が分裂したため衰退し、ローマ人は残忍な世界征服者で実際的な現実にだけ快感を覚え、またキリスト教は生命ある芸術を生み出すことはできなかったとキリスト教芸術のすべてを否定した。一方、ローマ滅亡後のゲルマン諸民族はローマ教会への抵抗に終始したし、またルネサンスは産業となって堕落したとする。さらに近代芸術は、その本質は産業であり、金儲けを倫理的目標としていると批判した上で、未来の芸術はあらゆる国民性を超越した自由な人類の精神を包含する、と論じた。また、同年の『未来の芸術作品』では、共通の苦境を知っている民衆(Volk)と、真の苦境を感じずに利己主義的な「民衆の敵」とを対比させて、「人間を機械として使うために人間を殺している現代の産業」や国家を批判して、未来の芸術家は音楽家でなく民衆である、と論じた。 亡命先のスイスでゲルマン神話への考察を深め、1849年には『ヴィーベルンゲン 伝説から導き出された世界史』で伝説は歴史よりも真実に近いとして、ドイツ民族の開祖は神の子であり、ジークフリートは他の民族からはキリストと呼ばれ、ジークフリートの力を受け継いだニーベルンゲンはすべての民族を代表して世界支配を要求する義務がある、とする神話について論じた。1848年革命の失敗によって、コスモポリタン的な愛国主義は、1850年代には排外的なものへと変容したが、ワーグナーも同時期にドイツ的なものを追求するようになっていった。 『ローエングリン』はリストの手によってワイマールで1850年に上演され、初演ではやや不評だったものの次第に評価を上げ、やがてワーグナーの代表作の一つとされるようになる。もっとも、亡命中のワーグナー自身はドイツ各地で上演される『ローエングリン』を鑑賞することができず、「ドイツ人で『ローエングリン』を聴いたことがないのは自分だけだ」と嘆いたという。ワーグナーが『ローエングリン』を聴くのは実に11年後、1861年のウィーンにおいてである。 この時期、独自の「総合芸術論」に関する論文数編を書き、「楽劇」の理論を創り上げた。 ワーグナーはマイアベーアを1846年にも尊敬していたが、1849年6月に指名手配を受けたワーグナーはパリでのマイアベーア流行に対して資本主義的音楽産業の兆候とみえ、憎悪するようになった。ワーグナーは友人テーオドーア・ウーリクとマイアベーアの『預言者』を観劇し、「純粋で、高貴で、高慢で、真正で、神的で人間的なものが、すでにそのように直接暖かく、至福の存在において息づいている」と称賛しているが、これは嘲笑ともされ、この時期にワーグナーは「内心軽蔑していたパトロンたちにさえ、馬鹿にされていたのが実は我々だった」とリストに述べている。 翌1850年、ワーグナーが変名で『音楽におけるユダヤ性』を「新音楽時報」に発表し、ユダヤ人は模倣しているだけで芸術を作り出せないし、芸術はユダヤ人によって嗜好品へと堕落したと主張した。また、「ユダヤ人は現に支配しているし、金が権力である限り、いつまでも支配し続けるだろう」とも述べた。ワーグナーは1850年以前はユダヤ人の完全解放を目指す運動に与していた。ワーグナーは『音楽におけるユダヤ性』で、マイアベーアを名指しでは攻撃せずに、ユダヤ系作曲家メンデルスゾーン・バルトルディを攻撃し、またユダヤ解放運動は抽象的な思想に動かされてのもので、それは自由主義が民衆の自由を唱えながら民衆と接することを嫌うようなものであり、ユダヤ化された現代芸術の「ユダヤ主義の重圧からの解放」が急務であると論じた。ワーグナーによれば、メンデルスゾーンは最も特殊な才能に恵まれ、繊細かつ多様な教養を有しているが、心を魂をわしづかみにするような作用をもたらさないとし、またバイロイト時代には才能を持っているが力を伸ばすにつれて愚かになっていく猿と評した。ただし、ワーグナーはメンデルスゾーンの『ヘブリデス』序曲(1830年)を称賛し、崇高であるとも評価し、1871年には自分が移調ができないことに対してメンデルスゾーンならば手を叩いて喜んだだろうとも述べており、さらにメンデルスゾーン本人よりも、メンデルスゾーン一派が台頭させて、価値を創造せずにただ商品を流通させているだけの「音楽銀行家」を批判した。また、1843年の「パウロ」ドレスデン初演をワーグナーは激賞し、メンデルスゾーンも「さまよえるオランダ人」ベルリン初演を称賛した。メンデルスゾーンは1847年に死去しており、『音楽におけるユダヤ性』はその三年後に発表された。『音楽におけるユダヤ性』を発表して以降、ワーグナーはマイアベーアの陰謀で法外な非難を受けたと述べ、1851年にワーグナーはリストに向けて、以前からユダヤ経済を憎んでいたと述べ、1853年にはユダヤ人への罵詈雑言をリストの前で述べるようになっていた。 他方で、ワーグナーはユダヤ人奏者を庇護したり、起用することも行った。例えば、『音楽におけるユダヤ性』には一点の疑義もなく、自殺するかワーグナーに師事するかしかないと述べたウクライナのユダヤ人ピアノ奏者ヨーゼフ・ルービンシュタインをワーグナーは庇護し、専属奏者とし、さらにバイロイト新聞への寄稿を求めた。同じくカール・タウジヒもユダヤ人でワーグナーの庇護下にあったし、ワーグナーがローエングリンとジークフリート役に好んで起用した歌手で後にプラハ新ドイツ劇場監督になるアンゲロ・ノイマンもユダヤ人であった。 1851年には超大作『ニーベルングの指環』を書き始める。また1859年には『トリスタンとイゾルデ』を完成させた。 1851年の『オペラとドラマ』でワーグナーは、古代ギリシャ人の芸術を再生できるのはドイツ人であると論じ、また死滅したラテン語にむすびついたイタリア語やフランス語とは違って、ドイツ語は「言語の根」とむすびついており、ドイツ語だけが完璧な劇作品を成就できる、と論じた。1851年12月にフランスでナポレオン3世のクーデターが起きると、ワーグナーは革命を期待したが、翌年末にフランス帝政が宣言されると、落胆して、ドイツへの帰国を考えるようになった。 1855年、ワーグナーの知り合いでもあった自由主義者の作家フライタークの小説「借方と貸方」では、ドイツ人商人が浪費癖の強いドイツ人貴族を助けて、ドイツへの憎しみに燃えるユダヤ人商人は没落し最後には汚い川で溺死するという話で、ドイツの長編小説の中で最も読まれたといわれ影響力があった。 1860年1月25日、パリでワーグナー作品演奏会が実施され、ベルリオーズ、マイアベーア、オーベール、グノーが来場し、さらにワーグナーが開いた水曜会にはサン=サーンスとグノーが常連となり、またワーグナーはボードレールを招待した。 1861年にはワーグナーが実名で『音楽におけるユダヤ性の解説』を刊行した。 この時期には数人の女性と交際していた。特にチューリヒで援助を受けていた豪商ヴェーゼンドンクの妻マティルデと恋に落ち、ミンナとは別居した。この不倫の恋は『トリスタンとイゾルデ』のきっかけとなり、またマティルデの詩をもとに歌曲集『ヴェーゼンドンクの5つの詩』を作曲した。しかしこの不倫は実らず、チューリヒにいられなくなったワーグナーは以後1年余りヴェネツィア、ルツェルン、パリと転々とした。1860年にはザクセン以外のドイツ諸邦への入国が許可された。1862年には『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の作曲にとりかかった。この年、恩赦によってザクセン入国も可能になり、ワーグナーは法的には亡命者でなくなった。そのため別居してドレスデンに住んでいた妻ミンナと再会できたが、この再会以後二人が会うことはなかった。またこのころ、ウィーン音楽院の教壇にも立っている。
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亡命時代
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「ジェームズ2世 (イングランド王)」の記事における「亡命時代」の解説
フランスに渡った後、ステュアート一家はヨーロッパ各地を転々とした。チャールズとジェームズの兄弟は、まずフランスでテュレンヌ将軍のもとで軍人として生計を立て、ジェームズはフロンドの乱でテュレンヌの軍に合流して反乱軍と戦った。続いてジェームズ23歳の1656年、2人は生活のためスペイン軍指揮官のコンデ公ルイ2世について各地を転戦、フランス・スペイン戦争でジェームズはスペイン領ネーデルラントでフランス軍と交戦、1658年の砂丘の戦いでコンデ公の軍に加わり、テュレンヌ率いるフランス軍と交戦した。テュレンヌやコンデ公は、ジェームズの軍人としての才能を高く評価している。 兄弟は復位の可能性を求めて列強の国々を巡ったが、三十年戦争などで疲弊したヨーロッパ諸国に兄弟を助ける余力などなく、むしろ護国卿政イングランドと友好関係を築こうとさえしていた。 1660年にクロムウェルの死去に伴いイングランド護国卿政が瓦解すると、チャールズ2世はブレダ宣言を発してイングランド王位に即き、ジェームズも故国の土を踏んだ。兄チャールズ2世には庶子は多くても嫡出子がなく、ジェームズが推定王位継承者となった。1660年9月、26歳のジェームズは兄の腹心のエドワード・ハイドの娘アンと結婚した。ハイドは後にクラレンドン伯爵に叙されるが当時はまだ平民であり、イギリスではこのアンが平民の娘として次代の王位継承予定者に嫁した初例となった。 ジェームズはヨーク公に加えてオールバニ公と海軍総司令官の称号も得てイングランド海軍を束ね、第2次・第3次英蘭戦争(1665–67年、1672–74年)にたずさわった。海軍総司令官在任中はサミュエル・ピープスと組んで海軍再建に尽力、第2次英蘭戦争では初代サンドウィッチ伯爵エドワード・モンタギューと父方の従兄カンバーランド公ルパートと共に1665年のローストフトの海戦でオランダ艦隊に大勝利を飾った。後継者を失うことを恐れた兄の命令で後方に回され、1665年以降は海戦から遠ざかったが、第3次英蘭戦争で海軍に復帰して再度オランダ艦隊と交戦した。1672年のソールベイの海戦で敗北を喫し、翌年の政争で海軍総司令官を辞任してルパートに交代したため、以後は海戦に参加していない。 1664年に北アメリカに派遣されたイングランド軍がオランダのニューネーデルラント植民地を占領したことを受けて、イングランドはこれを新たにニューヨーク植民地としたうえでジェームズに与えた。またその際、ジェームズの栄誉を称えて港湾都市ニューアムステルダムをヨーク公にちなんでニューヨークに、ハドソン川上流の都市フォートオレンジをオールバニ公にちなんでオールバニに改称している。このニューヨーク植民地は今日のニューヨーク州に加えて、ニュージャージー州・デラウェア州・バーモント州の版図とコネチカット州・マサチューセッツ州・メイン州の一部を含む広大なものだった。 この頃のジェームズは王立アフリカ会社の筆頭理事も務め、奴隷貿易に従事した。
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「ヨハネス・R・ベッヒャー」の記事における「亡命時代」の解説
「わたしがドイツ国外に住まなければならなかった12年間は、自分の人生のうちで最も過酷な試練であった。そう言ってよければ、それは地獄ではないにしても煉獄だったと言いたい。しかし、私が完全なドイツ人であったことで、よくないことも起こった。私はどこでも適応できなかったし、実際、12年間、再び故郷に帰れるようになるのをずっと待っていた」。突撃隊から逃れていることを喜んで、後にベッヒャーは故郷を失った12年間についてしぶしぶと語った。1933年4月にモスクワに到着し、全力で亡命団体の再組織化に取り込んだ。ナチスという共通の敵がいたため、共産主義者と社会主義者の統一戦線という考えも、注目を浴びた。ハンス・アイスラーが1934年に統一戦線歌を作曲したことは、その証拠である。ベッヒャーがコミンテルンからの受けた依頼は、文学的統一戦線を作ることであった。このため、彼はヨーロッパを駆け巡り、トーマス・マンやハインリヒ・マン、ロベルト・ムージル、ベルトルト・ブレヒトなどのようなたくさんの亡命者と連絡を取るために、多くの時間をパリで過ごした。ベッヒャーが統一戦線の考えを全く信じていなかったことは、エルンスト・オットヴァルト(ドイツ語版)に宛てた手紙を見ると明らかである。「我々は、社会民主主義に対する戦いをナチスに任せているだけで良いのだろうか?」ということを彼はまだ1934年2月に書いている。ソ連作家の組合会議で彼は演説し、統一戦線一色に染まっていたにもかかわらずである。 ソ連では、社会主義リアリズムが称揚され、急速に親しまれていた。しかし、このころスターリンの粛清(ドイツ語版)の犠牲者が出るようになった。モスクワのドイツ事務局にいたベッヒャーの連絡員も、一晩の内に消えてしまった。党指導部からの電報が9月5日のパリに届き、ベッヒャーは再びモスクワへ帰らなければならなくなった。良い知らせは何もないだろうということを完全に察知していたものの、コミンテルンからは財布の紐を閉められたので、結局彼は命令に服従しなければならなかった。モスクワに戻ると、大粛清はどんどんと広がっていった。スターリンの被害妄想は亡命作家たちにも及び、彼らは全員、綿密な審査を受けた。ドイツのソ連亡命者の75%が殺害されるか、ソ連の強制収容所グラグで行方不明になったのに、すでに雑誌『国際文学(Internationale Literatur)』の編集長であったベッヒャーが、どうして「粛清」を無傷で免れたのか、充分にわかっていないが、結局のところ、ヴィルヘルム・ピークのような党幹部のおかげであった。彼は熱中した幹部となり、ビクビクしながらスターリンに献身した。「私がスターリンを尊敬して愛したのと同じくらい、ソ連で体験しなければならなかった出来事に私は心を奪われていた。それについて何も知らなかったなどと言い訳できないし、それについて何も知りたくなかったと主張できない。何となく、ええ、私は知っていた!」。彼が大粛清の時代について書いたのは、フルシチョフがソ連共産党第20回大会で演説した翌年の1957年であった。 いつもベッヒャーは、ソ連をアメリカやスウェーデンの方に向かせておくのも悪くないと考えていた。自分の作品は、当時のソビエト美学に追従し、国民的価値と伝統を自覚していた。多くのドイツ亡命者にとって悲劇だったのは、1939年の独ソ不可侵条約であった。一瞬にして反ファシズムの論調がメディアから消え、およそ1,200人の亡命者がゲシュタポに引き渡された。ヴァルター・ウルブリヒトのような官僚的な党の模範的人物だけが次のように言うことができた。「独ソ両国民の友好関係を壊そうと陰謀を企む人は、ドイツ国民の敵であり、イギリス帝国主義の協力者という烙印を押される」。ドイツ軍が1941年にソ連に奇襲攻撃をかけるまで、仮想敵は金融資本主義でなければならなかった。まだソ連に居続けたドイツ人作家たちには、ベッヒャーは最も権威があり、重要な人物であると思われていた。戦争の混乱期に、ドイツ国防軍からの避難と、ドイツ共産党指導部の会議は、ホテル・ルックスへと移った。1944年秋、ドイツ帝国の敗戦が濃厚になってきとき、そこで新しいドイツを作るための労働委員会が設立された。そこにはヴァルター・ウルブリヒトやヴィルヘルム・ピーク、ヘルマン・マテルン(ドイツ語版)のような、後のドイツ社会主義統一党(SED)幹部が大勢いた。文化生活再建の担当することになったのは、ベッヒャーやアルフレート・クレラ(ドイツ語版)、エーリヒ・ヴァイネルト(ドイツ語版)だった。12年間の亡命生活が終わり、1945年7月にベッヒャーはようやく故郷に帰る事ができた。
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亡命時代
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国外へ亡命した党組織が活動を開始したのは、1922年末から翌年初めにかけてのことである。レスールザーデは1923年に党の指導のために外務局を設置したが、党と提携関係にない他のアゼルバイジャン人亡命者とも接触するために民族センターも設立した。イスタンブールに置かれたそれらの機関は、1940年代後半にアンカラに移されるまでは党活動の中心となっていた。 党外務局員 メフメト・エミーン・ラスールザーデ - 局長 ミルザ・バラ・マンマザーデ (az) - 秘書 ハリル・ベイ・ハスマンマドフ - 会計 シャフィ・ベイ・リュスタンベイリ (az) ムスタファ・ヴァキロフ (en) マンマト・サディグ・アフンドザーデ アッバースグル・カジムザーデ 民族センター職員 メフメト・エミーン・ラスールザーデ ハリル・ベイ・ハスマンマドフ ムスタファ・ヴァキロフ アクバル・アガ・シェイヒュリスラモフ (en) アブデュラリ・ベイ・アミルジャノフ 亡命時代の党首 メフメト・エミーン・ラスールザーデ(1917年 - 1955年) ミルザ・バラ・マンマザーデ(1955年 - 1959年) カリム・オダル(az, 1959年 - 1981年) マハンマト・アゼル・アラン(az, 1981年 - 1992年) 亡命時代の党機関紙・機関誌 Yeni Kafkasya,(1923年 - 1928年)- 機関誌、トルコで発行 Azəri Türk,(1928年 - 1929年)- 機関誌、トルコで発行 Odlu Yurdu,(1929年 - 1930年)- 機関誌、トルコで発行 Bildirici,(1930年 - 1931年)- 機関紙、トルコで発行 Azərbaycan Yurd Bilgisi,(1932年 - 1934年)- 機関誌、トルコで発行 İstiklâl,(1932年 - ?)- 機関紙、ドイツで発行 Kurtuluş,(1934年 - 1938年)- 機関誌、ドイツで発行 Müsavat Bülleteni,(1936年 - ?)- ポーランド、ドイツで発行 Azərbaycan,(1952年 - )- トルコで発行
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