亡命生活と戦後とは? わかりやすく解説

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亡命生活と戦後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:15 UTC 版)

トーマス・マン」の記事における「亡命生活と戦後」の解説

1933年秋、マンスイスチューリッヒ近くのキュスナハト(Küsnacht)に住居定めた1935年マン60歳誕生日スイス盛大に行なわれ出版社から贈られ祝詞集にはアルベルト・アインシュタインバーナード・ショークヌート・ハムスンなどからの手書き言葉寄せられた。同年ハーヴァード大学名誉博士授与される1936年11月チェコスロバキア国籍取得1937年スイスにおいて雑誌尺度価値(Maß und Wert)』を創刊1940年廃刊まで同誌で反ナチス論陣を張る1938年アメリカに移住プリンストン大学客員教授就任(のちに名誉教授)。大戦中のアメリカではドイツオーストリアからの亡命者支援した1939年長編小説ワイマルのロッテ』をストックホルム亡命中のフィッシャー社より刊行文豪としての名声得たゲーテと、彼がかつて『若きヴェルテルの悩み』のロッテモデルとしたシャルロッテ・ブッフとの再会描いており、のちに作品一節ニュルンベルク裁判イギリス裁判官ゲーテ自身言葉として引用したことが問題となった1940年6月フランス降伏後の「緊急救出委員会」に協力10月よりBBC放送通じて毎月定期的にドイツ国民ナチスへの不服従を訴え続けた。しかし国外で富裕な生活を送りながら反独活動をしたことは戦後ドイツマン対す賛否両論が起こる原因となった1941年1月ルーズベルト大統領賓客として、ホワイトハウス滞在4月カリフォルニア州パシフィック・パリセーズに家を建て永住決める。1944年6月アメリカ市民取得1947年長編ファウストゥス博士』を発表40年上前短編プランをもとに着手されたもので、自身芸術と文学対す集大成行なった1949年フランクフルト・アム・マインよりゲーテ賞受賞1952年6月、パシフィック・パリセーズを離れヨーロッパ各地巡ったのち12月チューリッヒ南隣のキルヒベルク(Kilchberg)に移り住むこの年レジオン・ドヌール将校十字章を受章1953年22年ぶりに故郷リューベック訪れる。1954年、『詐欺師フェーリクス・クルルの告白 回想録第1部』を出版1955年3月リューベック名誉市民、およびベルリン・ドイツ芸術アカデミー名誉会員選ばれる5月にはフリードリッヒ・シラー大学名博士号贈られ、ドイツ・シラー協会名誉会長となった6月には80歳の誕生日記念し東ドイツ全集刊行チューリヒ行なわれ祝賀会全集手渡されフランスからの祝詞集にはヴァンサン・オリオール大統領ロベール・シューマン外相シュヴァイツァーピカソロジェ・マルタン・デュ・ガールモーリアックマルローカミュらが言葉寄せたこの年7月オランダで病に倒れチューリッヒ州病院送られる8月12日心臓冠状動脈血栓症により同地にて死去遺体はキルヒベルクに葬られた。埋葬式数百人が集まりヘルマン・ヘッセ別れの言葉述べた

※この「亡命生活と戦後」の解説は、「トーマス・マン」の解説の一部です。
「亡命生活と戦後」を含む「トーマス・マン」の記事については、「トーマス・マン」の概要を参照ください。

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