亡命生活と戦後
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1933年秋、マンはスイスのチューリッヒ近くのキュスナハト(Küsnacht)に住居を定めた。1935年のマン60歳の誕生日もスイスで盛大に行なわれ、出版社から贈られた祝詞集にはアルベルト・アインシュタインやバーナード・ショー、クヌート・ハムスンなどからの手書きの言葉が寄せられた。同年ハーヴァード大学名誉博士を授与される。1936年11月、チェコスロバキア国籍を取得。1937年、スイスにおいて雑誌『尺度と価値(Maß und Wert)』を創刊、1940年の廃刊まで同誌で反ナチスの論陣を張る。1938年、アメリカに移住しプリンストン大学客員教授に就任(のちに名誉教授)。大戦中のアメリカではドイツ、オーストリアからの亡命者を支援した。 1939年、長編小説『ワイマルのロッテ』をストックホルムに亡命中のフィッシャー社より刊行。文豪としての名声を得たゲーテと、彼がかつて『若きヴェルテルの悩み』のロッテのモデルとしたシャルロッテ・ブッフとの再会を描いており、のちに作品の一節をニュルンベルク裁判でイギリスの裁判官がゲーテ自身の言葉として引用したことが問題となった。 1940年6月、フランス降伏後の「緊急救出委員会」に協力。10月よりBBC放送を通じて毎月定期的に、ドイツ国民にナチスへの不服従を訴え続けた。しかし国外で富裕な生活を送りながら反独活動をしたことは戦後ドイツでマンに対する賛否両論が起こる原因となった。 1941年1月、ルーズベルト大統領の賓客として、ホワイトハウスに滞在。4月にカリフォルニア州パシフィック・パリセーズに家を建て永住を決める。1944年6月、アメリカ市民権を取得。1947年、長編『ファウストゥス博士』を発表。40年以上前の短編プランをもとに着手されたもので、自身の芸術と文学に対する集大成を行なった。1949年にフランクフルト・アム・マインよりゲーテ賞を受賞。 1952年6月、パシフィック・パリセーズを離れ、ヨーロッパ各地を巡ったのち12月にチューリッヒ南隣のキルヒベルク(Kilchberg)に移り住む。この年レジオン・ドヌール将校十字章を受章。1953年、22年ぶりに故郷リューベックを訪れる。1954年、『詐欺師フェーリクス・クルルの告白 回想録の第1部』を出版。 1955年3月、リューベック名誉市民、およびベルリン・ドイツ芸術アカデミー名誉会員に選ばれる。5月にはフリードリッヒ・シラー大学名誉博士号を贈られ、ドイツ・シラー協会名誉会長となった。6月には80歳の誕生日を記念し東ドイツで全集が刊行。チューリヒで行なわれた祝賀会で全集が手渡され、フランスからの祝詞集にはヴァンサン・オリオール大統領、ロベール・シューマン外相、シュヴァイツァー、ピカソ、ロジェ・マルタン・デュ・ガール、モーリアック、マルロー、カミュらが言葉を寄せた。この年の7月、オランダで病に倒れ、チューリッヒ州立病院へ送られる。8月12日、心臓冠状動脈血栓症により同地にて死去。遺体はキルヒベルクに葬られた。埋葬式に数百人が集まり、ヘルマン・ヘッセが別れの言葉を述べた。
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