反独活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 00:46 UTC 版)
「アレクサンドル・ゴルチャコフ」の記事における「反独活動」の解説
以降ゴルチャコフは反独姿勢をとるようになり、ベルリン会議におけるビスマルクの態度やドイツの保護貿易への転換をマスコミ上で公然と批判するようになった。1879年夏にはパリを訪問して後の露仏同盟の基礎を作っている。 ビスマルクも対抗してマスコミ上でゴルチャコフ批判を展開した。さらにロシアに対する圧力を強めるべく、ペスト対策を理由にロシア商品の輸入を禁止し、独墺関係の強化を図り、またルーマニア独立の条件にロシアが嫌がるユダヤ人解放を要求した。 アレクサンドル2世はこれを憂慮し、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世に宛てて「ドイツ宰相はゴルチャコフ公爵に対する個人的な反感に突き動かされて両国間の対立を煽っている。」とする書簡を送っている。 しかしゴルチャコフは健康状態を理由に1879年から外国に滞在する事が多くなり、サンクト・ペテルブルクを訪れることはほとんどなくなっており、その地位も形式的なものとなりつつあった。後にゴルチャコフの後任の外相となるニコライ・ギールスが事実上その職務を代行している状態だった。 1881年3月1日に皇帝アレクサンドル2世がテロリストの襲撃を受けて暗殺された。後を受けて即位したアレクサンドル3世は反独的な思想の持ち主だったが、国内問題に集中するためにもドイツとの関係を修復せねばならないと考えており、即位後ただちに三帝同盟を復活させた。 反独派のゴルチャコフはアレクサンドル3世に退けられ、1882年4月9日をもって外相を退任することとなった。後任には1875年からゴルチャコフを補佐してきた親独派のニコライ・ギールスが任じられた。
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