亡命政府首相
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2011年4月27日に実施されたチベット亡命政府の首相(主席大臣〈カロン・ティパ〉)選挙で、55%(27,051票)を得票して当選した。この選挙の有権者数は83,399人、投票率59%(49,184人)。ただし、ネパールの首都カトマンドゥにおいては、ネパール当局の妨害により投票が実施できなかった。同年8月8日に正式に首相に就任。 ロブサン・センゲはチベット問題の平和的・非暴力的解決を望むダライ・ラマ14世の立場を尊重し、中国憲法の枠組みの中での自治権付与を求めている。彼は香港・マカオの一国二制度がチベットにとって最善の制度だとして、暴力を伴う抵抗運動に否定的な見解を示している。 チベット亡命政府首相としては400ドル(日本円で約3万円)の月給しか受け取っておらず、これはインド全体の平均月収の3万ルピー(日本円で約4万5,000円)と比べてもきわめて低いが、本人は亡命政府首相としての職務に情熱を燃やし、収入についてはまったく問題とはしていない。 2012年3月31日、初のアジア外遊となる日本訪問を行った。日本滞在中の記者会見で、国際社会が中国との経済関係を優先してチベット問題の解決を求められない現状に懸念を表明した。 9月20日、第15期チベット亡命政権議会は「亡命チベット人憲章」を改訂し、それまでの主席大臣(カロン・ティパ)という称号を「政治最高指導者」(シキョン。摂政とも訳される)と改めた。ロブサン・センゲはチベット亡命政府の初代の「政治最高指導者(シキョン)」となったことになる。 12月17日、日本の第46回衆議院議員総選挙で自民党が勝利したことについて声明を発表。声明では、「チベット人を代表して、安倍晋三氏を祝福し、日本の次期首相としての幸運を祈りたい。チベット人の民主主義と非暴力の戦いに対する日本人と日本政府の長期にわたる支えに感謝する」としている。 2013年3月10日、チベット民族蜂起記念日54周年に合わせ「中国がチベット問題を迅速に解決することが、他の自由を求める闘争に対する模範となるだろう」と声明を発表し、犠牲になったチベット人のために祈りを捧げた。 2015年3月10日、チベット民族蜂起記念日56周年に際して声明を発表し、「ラサ市のチベット人が"ゲットー"に追いやられている」とチベットの現状を指摘した。 2016年4月27日、首相選挙で57%を得票して再選を果たした。 2018年2月20日、日本チベット国会議員連盟の招きで日本の国会内で講演し、「自治」をめぐってのチベットと中国の対話について支援を呼び掛けた。 2020年11月20日にアメリカ政府の招待を受けホワイトハウスを訪問。チベット亡命政府首相がホワイトハウスを訪れたのはこれが初である。 2021年5月26日、チベット亡命政権首相の任期満了により退任。翌27日、ペンパ・ツェリン(英語版)新首相が就任し、その内閣で情報・国際関係省(外務省)大臣に任命される。
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亡命政府首相
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1991年、ダライ・ラマ14世によって亡命チベット代表者議会(チベット国民代議員大会、ATPD)の議員に指名された後、満場一致で議長に選ばれた。1996年~2001年にはカム地区から亡命したチベット人を代表する議会の議長であった。 2001年までは、亡命チベット代表者議会がダライ・ラマが推薦する候補者の中から閣僚を選出し、閣僚たちが互選によって首相(任期1年)を選出していたが、2001年にダライ・ラマ14世はチベット人が直接に自らの政府の指導者を選ぶべきであると声明。その意を受けた亡命チベット代表者議会第12回議会は選挙法を改定し、亡命政府首相(カロン・ティパ)の直接選挙が行われることになった。2001年5月12日の予備選挙と7月29日の本選挙の結果、サムドン・リンポチェは得票数約29,000、得票率約84%で亡命政府首相に選ばれた。残りの票は、もう一人の候補であるジュチェン・トゥプテン・ナムギャル(前首相)が獲得した。 2001年の組閣においては首相の他、情報・国際関係省(外務省)と公安省の大臣を兼任した。2006年には首相に再選され、公安省、情報・国際関係省(外務省)、内務省の各大臣を兼任した。 2001年以降、チベットの自治権に対する支持を獲得し、中国政府と自治権の交渉を行うというダライ・ラマ14世の提案に対する認識を広めるために、精力的に飛び回っている。 サムドン・リンポチェの亡命政府首相としての任期は2011年までとなっており、亡命チベット人憲章によって3選は認められていない。しかし亡命チベット人社会からの評価と人気はきわめて高いため、憲章を改正するかまたは例外を認めるかして首相続投を求める声も強かった。しかし、自身は「個別事情によって基本原則を変更すべきではない」として、それを拒否した(任期途中で辞任して後進に道を譲る考えを示したこともあるが、これはダライ・ラマ14世によって慰留された)。 2011年8月8日をもって任期満了で退任し、後任にはハーバード大学研究員のロブサン・センゲが就任した。
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