運動の激化と終結
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/30 15:50 UTC 版)
「ハッサン・ディ・ティロ」の記事における「運動の激化と終結」の解説
1998年、スハルト政権が崩壊し、新たに成立したハビビ政権により同年8月にアチェのDOM指定が解除された。2000年1月、GAMはインドネシア政府と初の和平会談を行い、同年6月から2001年1月までの停戦合意が締結、2002年12月9日には「敵対行為の停止協定」が結ばれ、和平に向けた具体的なプロセスに入った。 しかし、停戦合意後もGAMと国軍の衝突が続き、アチェの武力鎮圧を求める声が高まったことを受け、メガワティ政権は2003年5月19日に軍事非常事態を宣言し外国人のアチェ入域を禁止した(2004年に文民非常事態宣言に引き下げられた)。 非常事態宣言発令により再び衝突が激化し、2004年6月15日にはメガワティ政権の要請を受けたスウェーデン警察により、亡命政府首相のマリク・マフムド、外務大臣ザイニ・アブドゥラ(英語版)と共に逮捕されるが、健康上の理由により釈放された。 2004年12月26日、スマトラ島沖地震発生を契機に、甚大な被害を受けたアチェの復興を優先するためユドヨノ政権との和平交渉を開始。2005年にアチェの高度な自治権を認める和平宣言が受諾され、12月27日にGAMは武装解除し独立運動は終結した。
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