運動の発展と終焉
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鹿鳴館時代の1886(明治19年) 8月、第1次伊藤内閣の意向もあって、末松謙澄、渋沢栄一、外山正一をはじめ、政治家、経済人、文学者らが演劇改良会を結成、8月6日付『歌舞伎新報』に「演劇改良趣意書」をのせる。文明国の上流階級が見るにふさわしい演劇を主張し、女形の廃止(女優を出演させる)、花道の廃止、劇場の改良、芝居茶屋との関係見直しなどを提言し、以下のような目標を発表する。 一・従来演劇の陋習を改良し、好演劇を実際にださしむること。 二・演劇脚本の著作をして、栄誉ある業たらしむること。 三・構造完全にして、演劇その他音楽会、歌唱会の用に供すべき一演技場を構造すること。 翌年には、当時外務大臣だった井上馨の邸宅に設けた仮設舞台で明治天皇による天覧歌舞伎を実現させ、團十郎、菊五郎、左團次をはじめとする当時の看板役者が一堂に会し『勧進帳』などをつとめる。これによって、歌舞伎の社会的地位は大いに上った。 このような追い風を受け、1887(明治20)年1月、演劇改良会は法人の創設を目指すことを決めた。福地桜痴が定款を書き、渋沢、益田孝、岩崎弥太郎、大倉喜八郎ら財界人が賛同した。この時に、二十万円の建築費を充てて約六百坪の敷地に二千人収容の大劇場を建築するという壮大な案が示された。一方では外部からの作品提供をめざして、歌舞伎役者の川尻宝岑、漢学者の依田学海合作の脚本「吉野拾遺名歌誉」の上演を企画し、名士が集まって批評会まで開いたが、いずれも実現に至らず、肝心の團十郎の新史劇が難解すぎて観客の支持を得ず、仮名垣魯文に「活歴物」と揶揄されたり、さらに末松が天覧歌舞伎の「勧進帳」上演に際し、長唄の文言を改正しようとして、同志の福地に新聞紙上で批判される事件が起こるなど、内部でもまとまりを欠く有様であった。さらに座元の反対や、後援者たる井上の失脚も災いして運動は中途半端のままに終わった。演劇改良会は1888年に消滅した。 1886年9月、外山正一が『演劇改良私論』を刊行。10月3日、末松謙澄が文学会例会で演劇改良論を説き、11月に『演劇改良意見』を刊行。10月16日、演劇改良会員が築地大椿楼に集まり、依田学海・川尻宝岑「吉野拾遺名歌誉」を朗読、10月19日、浜町の常磐で協議し、改良劇場案が成る。11月、守川丑之助『演劇改良論駁議』刊行。1887年10月、大阪浪花座で『千種龝嵯峨月影』を上演(仲国に中村宗十郎。演劇改良会社の第1回興行)。
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