運動の発展と終焉とは? わかりやすく解説

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運動の発展と終焉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 08:13 UTC 版)

演劇改良運動」の記事における「運動の発展と終焉」の解説

鹿鳴館時代の1886(明治19年) 8月第1次伊藤内閣意向もあって、末松謙澄渋沢栄一外山正一をはじめ、政治家経済人文学者らが演劇改良会を結成8月6日付『歌舞伎新報』に「演劇改良趣意書」をのせる。文明国の上階級が見るにふさわしい演劇主張し女形廃止女優出演させる)、花道廃止劇場改良芝居茶屋との関係見直しなどを提言し、以下のような目標発表する。 一・従来演劇陋習改良し好演劇を実際にださしむること。 二・演劇脚本著作をして、栄誉ある業たらしむること。 三・構造完全にして、演劇その他音楽会歌唱会の用に供すべき一演技場を構造すること。 翌年には、当時外務大臣だった井上馨邸宅設けた仮設舞台で明治天皇による天覧歌舞伎実現させ、團十郎五郎、左團次をはじめとする当時看板役者一堂会し勧進帳』などをつとめる。これによって、歌舞伎社会的地位大い上ったこのような追い風を受け、1887(明治20)年1月演劇改良会は法人創設目指すことを決めた福地桜痴定款書き渋沢益田孝岩崎弥太郎大倉喜八郎財界人賛同した。この時に二十万円建築費を充てて約六百坪の敷地二千収容大劇場建築するという壮大な案が示された。一方で外部からの作品提供めざして歌舞伎役者川尻宝岑、漢学者依田学海合作脚本吉野拾遺名歌誉の上演を企画し名士集まって批評会まで開いたが、いずれも実現至らず肝心團十郎新史劇が難解すぎて観客支持得ず仮名垣魯文に「活歴物」と揶揄されたり、さらに末松天覧歌舞伎の「勧進帳上演際し長唄文言改正しようとして同志福地新聞紙上で批判される事件が起こるなど、内部でもまとまりを欠く有様であった。さらに座元反対や、後援者たる井上失脚災いして運動中途半端のままに終わった演劇改良会は1888年消滅した1886年9月外山正一が『演劇改良私論』を刊行10月3日末松謙澄文学例会演劇改良論を説き11月に『演劇改良意見』を刊行10月16日演劇改良会員築地大椿集まり依田学海川尻宝岑「吉野拾遺名歌誉」を朗読10月19日浜町常磐協議し改良劇場案が成る。11月、守川丑之助『演劇改良論駁議』刊行1887年10月大阪浪花座で『千種嵯峨月影』を上演仲国中村宗十郎演劇改良会社第1回興行)。

※この「運動の発展と終焉」の解説は、「演劇改良運動」の解説の一部です。
「運動の発展と終焉」を含む「演劇改良運動」の記事については、「演劇改良運動」の概要を参照ください。

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