運動の経緯
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1974年(昭和49年)5月。当時77歳の男性が、1枚の絵を携えてNHK中国本部を訪れた。男性は広島原爆の被爆者であり、絵は被爆直後の萬代橋付近を描いたものだった。彼は広島原爆を扱ったドラマである連続テレビ小説『鳩子の海』を見たことを機に、自身の目撃した被爆直後の光景をどうしても死ぬまでに描き残したいと考え、その絵を描いたと語った。 当時のNHK報道番組班、後の放送総局長である原田豊彦は、その絵の迫力もさることながら、70歳代を過ぎてもなお約30年前の被爆当時のことを鮮明に覚えている記憶力に衝撃を受けた。このことでNHKでは、被爆者たちに当時の体験を絵で表すよう依頼することが発案された。被爆者たちの老齢化は年を追って進み、一方では被爆地である広島においてすら、原爆を知らない若い世代が、人口の半数を占めるまでに増えていた。被爆体験を継承し、体験を被爆者一代で終わらせないことが目的であった。 同1974年6月、NHKの朝のローカル番組で、その男性のエピソードをもとに『届けられた一枚の絵』が放送され、「広島市民の手で原爆の絵を残そう」と、絵の募集が始められた。広島市出身の画家である四國五郎も出演し、共に絵の募集を呼びかけた。次いで、ニュースやお知らせの時間を通じても、絵の募集の呼びかけが続けられた。 NHK内では、年老いた被爆者たちが描き慣れない絵を描くかどうか、といった意見もあった。しかし、そうした危惧とは裏腹に、番組終了から間もなく次々に絵が寄せられた。90歳の老人の描いた絵もあれば、被爆当時6歳、応募時36歳の主婦の絵もあった。平均年齢は75歳で、原爆のことを語ったり絵に遺したりするのが初めてという被爆者がほとんどだった。 寄せられる絵の半数近くは郵送であり、残りの半数は、年老いた体の被爆者たちがNHKまで直接、足を運んで絵を持ち込んだ。中には、遠い道のりを不自由な体で届けた被爆者や、広島から約70キロメートル離れた山口県田布施町から雨の中をバイクで駆けつけた者もいた。絵の作者である被爆者の大多数は、被爆時の辛い記憶を封印して生きてきたことで、絵を描くまでには葛藤があったが、描き始めてからは一気に描き上げたと話した。 折しも1960年代後半から1970年代にかけては、高度経済成長の歪みが噴出したこと、「ベトナムに平和を!市民連合」のように既成の政治団体や既存の規約に捉われない市民運動が誕生し始めていたこと、原水爆禁止運動の政治的分裂が続いたことで原爆体験の継承を模索する新たな動きも現れ始めていたこと、といった時代背景があった。これらを受けて当時の関係者は、原爆の絵と市民とを結び付け、NHKによる絵の募集を「メディアと市民との連携により実現した歴史的な記録事業」と位置付けていた。 同1974年8月1日から6日間、これらの絵が広島平和記念資料館(以下、平和資料館と略)で展示された。来場者は約2万人に昇った。感想ノートには多数の感想が書き込まれ、ノートの数は18冊に昇った。開催中にも絵が次々に寄せられ、会場内でも絵を描くことを希望する来場者により絵が増えたために、会場は当初準備された広さの倍にまで広げられ、壁面は天井近くまで絵で埋め尽くされた。 被曝30年にあたる翌1975年4月より、NHKでは再び絵の募集が始められた。翌5月時点にはすでに、新たな300枚の絵が寄せられていた。前回募集時にも絵を寄せ、新たに病床の中で5枚の絵を描いた男性もいた。5月6日にはNHKで『ひろしまリポート・市民の手で原爆の絵を──ことしも画き続ける』が放送された。 同1975年7月、これらの絵のうち104点を収録した絵画集『劫火を見た 市民の手で原爆の絵を』がNHK出版協会から発刊された。同月より広島県や中国新聞社などの主催による『ヒロシマ・原爆の記録展』で、300点の絵が各種原爆資料と共に展示された。開催地は札幌市、仙台市、東京都、名古屋市、大阪市の主要5都市で、6日間の開催期間中に約4万人が来場した。 原爆投下日である同1975年8月6日には、NHK広島によるドキュメンタリー番組『市民の手で原爆の絵を』が放映され、集められた絵が1枚1枚紹介された。この番組は全国放送されて大きな反響を呼び、絵の募集運動はさらに拡大した。この番組は、放送批評懇談会による第34回ギャラクシー賞、同年度の放送文化基金賞を受賞した。後には英訳され、国際連合にも寄贈された。 同1975年12月、これらの絵はすべて広島市に寄贈された。翌1976年(昭和51年)に平和資料館の管理・運営組織である広島平和文化センターが発足した後、絵はすべて同センターに譲渡された。同館からの貸し出しの際には損傷を避けるため、透明ビニールとジュラルミンケースでの包装で行なわれる体制が整えられた。 1993年(平成5年)には、歴史家の家永三郎らの編による『ヒロシマナガサキ原爆写真・絵画集成』が発行され、その第5巻と第6巻で、それぞれ広島と長崎の「被爆市民が描く原爆の絵」として紹介された。これにより広島と長崎の被爆者たちによる絵は「市民が描いた原爆の絵」として知られるようになった。 21世紀以降、平和資料館による絵画作品のデータベース化に伴う追跡調査により、これらの絵の作者の70パーセントが故人であることが判明した。このことが契機になり、2002年(平成14年)には再び広島市、長崎市で絵の募集が行なわれた。この募集活動には広島市や中国新聞社も参加した。この結果、広島では484人による1338点の絵、長崎では130人による300点の作品が集まった。その後の2013年(平成25年)には絵の数は4,256点に昇った。2000年代以降、これらの原爆の絵は平和資料館で常時展示されており、同館の公式ウェブサイトでも一部が閲覧可能である。
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