運動の経緯とは? わかりやすく解説

運動の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/05 23:15 UTC 版)

原爆の絵運動」の記事における「運動の経緯」の解説

1974年昭和49年5月当時77歳男性が、1枚の絵を携えてNHK中国本部訪れた男性広島原爆被爆者であり、絵は被爆直後萬代橋付近描いたのだった。彼は広島原爆扱ったドラマである連続テレビ小説鳩子の海』を見たことを機に自身目撃した被爆直後光景をどうしても死ぬまでに描き残したい考え、その絵を描いた語った当時NHK報道番組班、後の放送総局長である原田豊彦は、その絵の迫力さることながら70歳代を過ぎてもなお約30年前被爆当時のことを鮮明に覚えている記憶力衝撃受けた。このことでNHKでは、被爆者たちに当時体験を絵で表すよう依頼することが発案された。被爆者たちの老齢化年を追って進み一方で被爆地である広島においてすら、原爆知らない若い世代が、人口半数占めるまでに増えていた。被爆体験継承し体験被爆者一代で終わらせないことが目的であった。 同1974年6月NHKの朝のローカル番組で、その男性のエピソードをもとに『届けられ一枚の絵』が放送され、「広島市の手原爆の絵を残そう」と、絵の募集始められた。広島市出身画家である四國五郎出演し、共に絵の募集呼びかけた。次いでニュースお知らせ時間通じても、絵の募集呼びかけ続けられた。 NHK内では、年老いた被爆者たちが描き慣れない絵を描くかどうか、といった意見もあった。しかし、そうした危惧とは裏腹に番組終了から間もなく次々に絵が寄せられた。90歳の老人描いた絵もあれば、被爆当時6歳応募36歳主婦の絵もあった。平均年齢75歳で、原爆のことを語ったり絵に遺したりするのが初めてという被爆者がほとんどだった。 寄せられる絵の半数近く郵送であり、残り半数は、年老いた体の被爆者たちがNHKまで直接足を運んで絵を持ち込んだ中には遠い道のりを不自由な体で届けた被爆者や、広島から約70キロメートル離れた山口県田布施町からの中をバイク駆けつけた者もいた。絵の作者である被爆者大多数は、被爆時の辛い記憶封印して生きてきたことで、絵を描くまでには葛藤があったが、描き始めてからは一気描き上げた話した折しも1960年代後半から1970年代にかけては、高度経済成長歪み噴出したこと、「ベトナムに平和を!市民連合」のように既成政治団体既存規約捉われない市民運動誕生し始めていたこと、原水爆禁止運動政治的分裂続いたことで原爆体験継承模索する新たな動き現れ始めていたこと、といった時代背景があった。これらを受けて当時関係者は、原爆の絵と市民とを結び付けNHKによる絵の募集を「メディア市民との連携により実現した歴史的な記録事業」と位置付けていた。 同1974年8月1日から6日間、これらの絵が広島平和記念資料館(以下、平和資料館と略)で展示された。来場者は約2万人に昇った。感想ノートには多数感想書き込まれノートの数は18冊に昇った。開催中にも絵が次々寄せられ会場内でも絵を描くことを希望する来場者により絵が増えたために、会場当初準備され広さの倍にまで広げられ壁面天井近くまで絵で埋め尽くされた。 被曝30年にあたる翌1975年4月より、NHKでは再び絵の募集始められた。翌5月時点にはすでに、新たな300の絵が寄せられていた。前回募集時にも絵を寄せ新たに病床の中で5の絵を描いた男性もいた。5月6日にはNHKで『ひろしまリポート市民の手で原爆の絵を──ことしも画き続ける』が放送された。 同1975年7月、これらの絵のうち104点を収録した絵画集劫火見た 市民の手で原爆の絵を』がNHK出版協会から発刊された。同月より広島県中国新聞社などの主催による『ヒロシマ原爆記録展』で、300点の絵が各種原爆資料と共に展示された。開催地は札幌市仙台市東京都名古屋市大阪市の主要5都市で、6日間開催期間中に約4万人来場した。 原爆投下日である同1975年8月6日には、NHK広島によるドキュメンタリー番組市民の手で原爆の絵を』が放映され集められた絵が1枚1枚紹介された。この番組全国放送されて大きな反響呼び、絵の募集運動はさらに拡大した。この番組は、放送批評懇談会による第34回ギャラクシー賞同年度の放送文化基金賞受賞した。後には英訳され国際連合にも寄贈された。 同1975年12月、これらの絵はすべて広島市寄贈された。翌1976年昭和51年)に平和資料館管理・運営組織である広島平和文化センター発足した後、絵はすべて同センター譲渡された。同館からの貸し出しの際には損傷避けるため、透明ビニールとジュラルミンケースでの包装行なわれる体制整えられた。 1993年平成5年)には、歴史家家永三郎らの編による『ヒロシマナガサキ原爆写真絵画集成』が発行され、その第5巻第6巻で、それぞれ広島長崎の「被爆市民が描く原爆の絵」として紹介された。これにより広島長崎被爆者たちによる絵は「市民描いた原爆の絵」として知られるようになった21世紀以降平和資料館による絵画作品データベース化に伴う追跡調査により、これらの絵の作者70パーセント故人であることが判明した。このことが契機になり、2002年平成14年)には再び広島市長崎市で絵の募集が行なわれた。この募集活動には広島市中国新聞社参加した。この結果広島では484人による1338点の絵、長崎では130人による300点の作品集まったその後2013年平成25年)には絵の数は4,256点に昇った。2000年代以降、これらの原爆の絵は平和資料館常時展示されており、同館の公式ウェブサイトでも一部閲覧可能である。

※この「運動の経緯」の解説は、「原爆の絵運動」の解説の一部です。
「運動の経緯」を含む「原爆の絵運動」の記事については、「原爆の絵運動」の概要を参照ください。

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