亡命政権とアフリカ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 22:52 UTC 版)
「シャルル・ド・ゴール」の記事における「亡命政権とアフリカ」の解説
1940年6月には同年3月のエドゥアール・ダラディエの辞任により新たに首相に就任したポール・レノー率いる新内閣の国防次官兼陸軍次官に任命され、フランス軍史上最年少の49歳で少将となった。ドイツ軍によるフランス侵攻に対するイギリス軍の協力を得るためロンドンに飛び、ウィンストン・チャーチル戦時内閣と交渉を開始する。その中で、合法的に英仏連合軍の指揮権の統合・亡命的性格の政策・英仏連合(フランスとイギリスとの政治統合構想)に奔走した。イギリス側の閣議決定後にフランス政府の避難先のボルドーに向かったが、レノー内閣は英仏連合の案件と休戦派の圧力で総辞職し、次官職を解かれた。 6月15日に首都のパリが陥落すると、やむなくド・ゴールはイギリスへ召還された連合軍顧問のイギリス陸軍将校のスピアーズ将軍に同伴して亡命することを決断した。そしてロンドンに亡命政府の「自由フランス」を結成し、BBCラジオを通じて、対ドイツ抗戦の継続とヴィシー政権への抵抗をフランス国民に呼びかけた。こうした情報戦をアンドレ・ドゥヴァヴラン(パッシ大佐)がさらに展開した。彼は、ロスチャイルド家と古くから姻戚のヴォルム銀行(Banque Worms)を代理する立場にあった。ヴィシー政権の主要な閣僚は同行から出ていた。翌1941年10月25日にド・ゴールはジャン・ムーランと会見し、1つの大きな組織である「レジスタンス国民会議」を作る為にムーランを極秘でフランス本土に派遣する。同年、エルヴェ・アルファンがド・ゴールの経済顧問となり、ヴォルムとロスチャイルドの共同出資によりSNPA(エルフ・アキテーヌの前身。いわゆるFRANCAREP)が設立された。パッシ大佐はSNPAの監査役となった。 ド・ゴールは自ら自由フランス軍を指揮してアルジェリア、チュニジアなどのフランス植民地を中心とした北アフリカ戦線で戦い、対独抗戦を指導した。しかしフランス領インドシナ、マダガスカルを初めとする植民地・フランス本国のフランス軍の多くは中立を維持するかヴィシー政権に帰属した。その後自由フランス軍は連合国と共同でフランス植民地のガボン・マダガスカルを攻略した。1942年にはアルジェリアでフランス海軍の大将フランソワ・ダルランが連合国側につき、北アフリカのフランス主席となったが暗殺された。この暗殺の背後にはド・ゴールの関与があったという説もある。陸軍大将であるアンリ・ジローがダルランの後継となり、ド・ゴールとフランスを代表した。
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