亡命政府の苦悩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 11:27 UTC 版)
「ルクセンブルクの歴史」の記事における「亡命政府の苦悩」の解説
ルクセンブルクは資産をベルギー国立銀行に預託していた。ベルギー国立銀行は保管・保有する全資産の3分の2をアメリカへ避難させた。残りの3分の1にルクセンブルクの資産があった。この3分の1がダカール経由となったが、フランスのヴィシー政権に押さえられ、ナチスの手に渡った(フランス銀行#現代も参照)。結局、コンゴ植民地から収益のあるベルギー政府に資金を前借りした。 亡命政府は占領されたルクセンブルクの国民たちを鼓舞して連合軍の勝利を確信させるため、頻繁にBBC放送を通じて宣伝を行い、シャルロット大公もそれに加わった。そして連合軍に所属する諸国の一般世論へもその支持を訴え、ナチスによるゲルマン化の恐ろしさを伝え、さらに1942年8月、ルクセンブルクで発生したゼネストをドイツ軍が鎮圧した時、ついには世界規模でナチスを非難する反響を得ることに成功した。しかし、あまりにも国土が狭いため、連合国首脳のコメントの中にルクセンブルクが含まれないこともあったため、「忘れられないための常なる戦い」を亡命政府は続けなければならなかった。ただし、ルクセンブルクはアメリカが策定した戦後の援助プログラムに加えられ、ロンドンでの諸国外相会議にも常に参加した。 一方でルクセンブルクは非武装中立方針であったため、兵士などがほとんど存在しなかった。フェリックスやジャン大公世子をはじめとするルクセンブルク人は義勇兵として連合国軍に参加して各戦線で戦った。1944年、ルクセンブルクから亡命した人々や他国の外人部隊に所属していたルクセンブルク人らを召集してルクセンブルク中隊を編成、ベルギー第1旅団に所属させたが、戦後この影響からルクセンブルクでは兵役義務制が実施されることとなる。 そして、この期間に亡命政府は同じく亡命していたベルギー政府やオランダ政府との関係を深めることとなり、終戦後に新たなベルギー・ルクセンブルク経済同盟(Union économique belgo-luxembourgeoise, UEBL)が一新された上で締結され、さらに三国は1945年9月5日、ベネルクス協定を締結する関係にまで至った。 当初見捨てられたと考えていたルクセンブルク国民たちも、ナチス・ドイツによるゲルマン化政策を中心とする占領期間が長引いたため、政府の亡命を正しいことであったと考えられるようになった。
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